グッドマン「帰納法の新たな謎」

9月から11月まで、週に1本論文を読んできて、ディスカッションするという授業を取っています。
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帰納法というと、ヒュームの問題がある。
帰納法というのは、果たして妥当な推論であるのか、という問題だ。
まあ、帰納法というのは、ごく普通に行われていることで、多分正しいのだろうが、何故帰納法が正しいのか、ということが分からないのである。
これに対してヒュームは、習慣と一致するから、と答える。
つまり、帰納法とは、習慣と一致する仮説を選ぶ推論方法なのである。
これに対して、この答えは、帰納法がどのようにしてなされているのか、という問いには答えているが、帰納法が何故正しいのか、という問いには答えていない、と言われ、帰納法の正当化について論じられてきた。
一方、グッドマンは、ヒュームは間違った答えを言っていない、という。
あるい推論方法の正しさについて答えるためには、まさに推論方法がどのようにしてなされているか答えるのがよい、とグッドマンは主張する。

私は、演繹的推理は妥当な一般規則に一致することによって正当化されると言った。同時に、一般的規則は妥当な推理と一致することによって正当化されるとも言った。しかし、この循環は良性のものである。要点は、規則と個別的推理の両者は、どちらも他と適合されることによって正当化されるということである。規則は、われわれが受け入れたくない推理をもたらすとき、修正され、推理は、われわれが修正したくない規則を破るとき、拒絶される

続いて、帰納法とはどのようになされるのかが論じられる。
まず、帰納法とは演繹法の逆である、と考えてみる。
ある仮説からある証拠が演繹によって帰結するのであれば、ある証拠からある仮説が帰納によって確証される、とするのだ。
だが、これではあまりにも多くの仮説が確証されてしまう。
そこで、証拠として採用できる個別例に限定を与える。普遍量化子や存在量化子の変域を、その個別例が属する集合へと限定する。
また、個々の証拠から一般化を行うことで確証するのではなく、証拠の総体から一般化を行うことで確証する。
グッドマンは、これらの方法を挙げるが、それ以外にもいくつかの道があるし、さらに細かく議論することができると述べるが、とにかくこのようにして、帰納法がどのような方法であるかを論じようとする。


しかし、解決できない問題が生じる。
有名なグルーのパラドックスである。
帰納法は、規則性のある事柄に関しては有効だが、規則性のない事柄に関しては無効となる。ならば、規則性の有無を判定することができれば、帰納法というものがどういうものがわかるようになるだろう。
だが、グルーのパラドックスによって、規則性の有無を判定することが非常に難しいことが明らかになった。
規則性の有無は如何にして判定することができるのか。
例えば、暗黙の内に前提されている情報などに言及すれば、規則性は見つかるのではないか。だが、それにはどのような情報がどのように規則性を保証するのか分からなければならない。そもそもそれが分からなくて困っているのだから、これは解決にならない。
あるいは、「純粋に質的な」述語こそが、規則性を担っているのではないか。
だが、そもそも「純粋に質的」かどうかは判定できるのだろうか。純粋に質的かどうかは、相対的な事柄である。
グルーのパラドックスにおいて、グリーンやブルーは「純粋に質的」だが、グルーやブリーンはそうではない、いわば派生的な述語に見える。しかし、それはグリーンやブルーを出発点にしているからであって、グルーやブリーンを出発点にすれば、つまりグルーやブリーンの方が普通だと思われているような世界においては、グリーンやブルーの方が派生的である。
規則性があるかどうか、とは、何に規則性を見出すか、という問題である。
どのようなものにでも、規則性を見出そうと思えば見出すことができる。
それを分けているのは一体何なのか。
これが、グッドマンの指摘する「帰納法の新たな謎」である。


この規則性の問題は、後期ウィトゲンシュタインも問題にしている。
いわゆる、規則のパラドックスである。
ただし、グッドマンがこれを書いた当時は、『探求』はそのような読まれ方をしていなかったので、グッドマンはウィトゲンシュタインとは関係なく、この問題を発見したことになる。
また、『可能世界の哲学』はこの問題に対する一つの提案を行っていると言えるかもしれない。