佐藤友哉『世界の終わりの終わり』

連載時より、この作品はそれほど特別に面白い作品というわけではなかったが、単行本化に際してより面白くなくなってしまった。
どのように書き換えられたのか、という点だけの興味で買ったので、まあ別に構わないのだが。
何故面白くなくなったのか。
やや長いが、「Lエルトセヴン7 第2ステージ」から引用したい。

『群像』1月号の創作合評で、佐藤の過去作『水没ピアノ』における得体の知れなさを高く評価する三浦雅士が、『1000の小説とバックベアード』に対しては「カルチャーセンターか何かで教えているような文学概念になっちゃっている」と不満を述べていたが、ここではその傾向はさらに進んでいるようにさえ思える。現代的な自然主義といえなくもない、そういうカテゴライズにすっぽりと収まるかのような整合性を得たかわりに、初期の衝動は完璧に失われている。じっさい、作中において重要な役割を果たす「妹」の存在からは、かつての正体不明なイメージが損なわれ、ひどく図式的な自意識の産物へと変容させられおり、〈僕がもとめ僕が愛した、僕にしか見ることのできない友人〉であり〈そして宿敵〉である「影」と呼ばれる存在も、これまた同様に、図式的すぎるほどに図式的である。

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おそらく、お話としての出来は、単行本の方がよくなっているのである。
ただ、「初期の衝動」、何かよく分からない勢いが失われているように思うのだ。
新現実』で連載されていた時には、小さな字が四段組で押し込まれていて、読む方も何か必死に読まされていたような気がする。単行本は、もちろん1段でとても読みやすいレイアウトだ。
あるいは、佐藤友哉本人のおかれた境遇の違いも何か関係しているだるか。
レイアウトにいろ、作者の状況にしろ、作品にとっては関係ない外部であって、その変化を作品の変化と見なすのは間違っているかもしれないが、しかし何か反映されているものがあるような気もするのだ。


話としてのまとまりは明らかによくなっているのである。
第二話の少女の扱い*1や、各小見出しのタイトル*2が、連載時はお話として読ませることを拒んでいたように思うが、それがなくなった。
だがその代わりに、影だの、アナスタシアだのが出てきて、あまりにも「整合的」「図式的」になってしまったということだ。
この作品で楽しめるところというと、むしろ、佐藤の文体が持つリズムの方かもしれない。

世界の終わりの終わり

世界の終わりの終わり

*1:連載時では作中作扱いされていた

*2:連載時は佐藤自身の作品の名前がパロディにされていたが、単行本化にあたって消えた