クワイン「経験主義の二つのドグマ」(現代哲学)

9月から11月まで、週に1本論文を読んできて、ディスカッションするという授業を取っています。
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クワインは、以下の二つのことを、何の根拠もないドグマにすぎないとして否定する
「分析的言明と総合的言明に本質的な違いがあること」
「言明は直接的経験をあらわす言語へと還元できること」


まず一つめから。
分析的言明とは、必ず真になるような言明である。
それには、論理的なものと定義によるものがある。
定義によるものとは、例えば「独身者はみな結婚していない」である。
この言明は、「独身者」という言葉が「結婚していない者」という意味なので、必ず真(分析的)である。
つまり、ある言明が分析的かどうかは、意味についての探求によって明らかになるのである。
「Aの意味はBである」とはどういうことか。
「AとBは同義である」ということである。ここで、意味についての探求は同義性についての探求に代わる。
ところが、この同義性について考えると、そこでは「分析性」ということが前提されていることがわかる。
「AとBは同義である」とは「「AはBである」*1が必ず真(分析的)である」ということになる。
分析的、ということを明らかにしようとすると、循環に陥ってしまうのである。
そこでクワインは、分析的な真理なるものはないと考えた。


次に二つめ。
ある一つの言明が直接的経験をあらわす言語へと還元することはできない
というのは、言明と経験とが、必然的に結びついてるわけではない、ということである*2
ある経験に対して、それを説明する言明がただ一つとは限らず、他の言明が対応する可能性が必ずある。
そして、どの言明であるべきかは、何らかの必然性をもって定まってはいない。
このことを、デュエムクワイン・テーゼと呼ぶ。
例えば、「TVが映っていない」という経験があるとする。普通は、「TVの電源が入っていない」という言明によって説明される。だが、「TVの電源は入っている、かつ停電している」かもしれないし、「TVの電源は入っている、かつ停電していない、かつ電波を受信していない」かもしれない。
一つの経験に対して、説明する方法はいくつもあり
一つの経験に対して、一つの言明ではなく、複数の言明が対応している*3


必然的な結びつきがないとするならば、ある言明なり理論なりはどのようにして決まるのか。
それはプラグマティックに決められる。
つまり、便利さ、単純さ、保守性などによってである。
分析的言明、だと思われている言明が、真であるのも、便利さ、単純さの故でしかない。
「1+1=2」が真であるのは、プラグマティックに真なのであって必然的に真なのではない。
それは、偽である可能性もありうる。ただ、もしそれが偽だとすると不便極まりないので、真ということにしているのである。
排中律などは、その代表であるといえる。
クワインのこの考えにしたがえば、神話と物理学との間に本質的な違いはない、ということになる。
物理学の方が神話よりも、説明するのに便利だから真とされているにすぎない。
また、存在論的問いも同様である。
つまり、物理的存在(原子や電子)や数学的対象(数や集合)や神話的存在(ケンタウロス)が実在するかどうか、という問いだ。


ここでクワインのいうプラグマティズムと、一般的なプラグマティズムは多少異なる。
クワインのそれに従えば、科学の理論というのは任意のもので、異なるものになる可能性もありうる。
一般的なそれは、科学の理論というのは必ず一つのものに収束すると考える。
また、このクワインの立場は極端なもの、というのが多くの見解らしく、多くの哲学者は分析的真理はあるという立場を維持しているらしい。ただし、その線引きが難しいことは認めている。

*1:正確には、Aは全てBであり、かつ、AだけがBである

*2:一つめのドグマの否定と実は同じこと

*3:経験的有意味性の単位は、個々独立の言明ではなく言明の団体全体