LSDを買うかどうかは迷っていたのだけど、http://d.hatena.ne.jp/massunnk/20070825/p3をきっかけに購入。
滅茶苦茶面白い。
これは、結論が出なかったという点では「失敗作」なのかもしれないが、こんなに面白いとなると「失敗作」と呼ぶのはもったいない。
この作品から『動物化するポストモダン』が生まれてくることになる。
この論文は、面白いというか示唆に富んでいるというか、動ポモではわからなかった哲学的ないし思想史的背景がよくわかる。
東ってやっぱり滅茶苦茶本読んでいるんだなー、ということもよくわかる(^^;
哲学畑に閉じこもっていてもよくないから出ていこう、とした、東の考えはよくわかるんだけど*1、もうちょっと哲学畑でいじくりまわしてみたい自分としては、この論文はスタート地点になりうる気がした。
『不過視なものの世界』で言われた通り、「見えるもの(イメージ)」と「見えないもの(シンボル)」の二項対立図式から、「見えるもの(イメージかつシンボル)」だけの図式への移行が、ここでは書かれている。
全10回の連載からなるこの論文は、
第1回から第4回にかけて、フロイト−ラカンの精神分析を用いてディックの小説を読み解き、
第5回から第6回にかけて、ジジェクの「象徴的同一化の想像的シミュレーション」ないしカリフォルニア・イデオロギーの中で生まれてきた「インターフェイス的主体」について検討し、
第7回でその両者を合流させ、
第8回から第10回で、そこまでの議論を思想史的な位置づけを行っている。
サイバースペースという「場所」の隠喩、ないし、ラカンに代表される(それはデカルトもしくはメルロ=ポンティに起源が求められる)視覚の隠喩は、「不気味なもの」を隠蔽している。そして、ディックの小説は「不気味なもの」を巡る小説である。
視覚の隠喩は、「見えるもの」と「見えないもの」という二項対立図式に拠っている。しかし、この二項対立は絶対ではない。
何故なら、まず第一に、「見えるもの」でも「見えないもの」でもないものとしての「不気味なもの」があり、第二に、象徴界の衰退によって全てが「見えるもの」へと化していくからである。
「見えないもの」に基づいて主体たろうとするラカン的な(ないし近代的な)回路とは別に
「不気味なもの」に基づいて主体たろうとする「インターフェイス的主体」的な回路がありうるのである。
それこそ、ディックやカリフォルニア・イデオロギーが表そうとしていたものである。
ここでいう「不気味なもの」は、シミュラークルなりエクリチュールなりに言い換え可能である。
そして、そのような回路を表すのに適切な比喩は、視覚的・空間的比喩ではないのである。
では、どのような比喩が適切か。それはこの論文では示されない。『動物化するポストモダン』を待たなければならない。
とまあ、こんな感じでまとめることができるが、この論文で面白いのは、やはりかなり多岐にわたる思想が参照されていることだろう。
精神分析、ディック、カリフォルニア・イデオロギー、デリダが中心となるが
例えば第8回では、チューリングマシン、ゲーデル、ペンローズの量子脳が引き合いに出されている。
1936年は、ラカン、チューリング、ベンヤミンがそれぞれ論文を発表した年である。この三人の学者が同時に語られることは少ないだろうが、東はこの3人の依拠していた共通のエピステーメーを炙り出すと共に、この3人の複雑な関係*2をもとに現代を語ろうとしていたのだ。
- 作者: 東浩紀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/08/02
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