ラッセル「指示について」(現代哲学)

9月から11月まで、週に1本論文を読んできて、ディスカッションするという授業を取っています。
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日常言語では隠されてしまっている言語の深層構造を見つけ出そうと試みた人、ラッセル。
フレーゲの提示した、意義と意味(内包と外延)の区別を評価しつつも、記述句においては、外延を持たないように思われるものがあることを指摘して、そこにフレーゲ説の限界を見る。
そして、記述句を分析して除去してしまうことによって、そもそも記述句における外延、内包なるものはないということを示す。
記述句がどのような外延を持つのか分からないがために、無意味*1と判断されてしまうような文も、そもそも記述句なるものを分析して除去してしまうことで、有意味と判断することが可能になる*2
ラッセルは、固有名もそのほとんどが偽装された記述だと考える。
というのも、固有名というのは指示が成立しないと使うことができない。そして、指示の成立のためには、見知りが必要となる。
固有名や記述句を記述へ分析していくことによって、見知っているものまで解体していく。そのことによって、見知りの知識から知識体系が組み上がっている、というラッセルの認識論ないし存在論へと繋がっていくことになる*3


しかし、一回習って分かったつもりになっていることも、日を置いてもう一度別の方向から見てみると分かってなかったり、忘れてたりすることがあるなあ、当たり前だけど。

*1:真偽が判定できないこと。知識がないために判断できないのは別に無意味とは呼ばない。例、アブラカタブラ

*2:そして実際、そのような文はふつうならば有意味と判断されているわけだから、無意味と判断せざるを得なくなる、「記述句は外延を持つ」という考えを捨てることは正しいといことになる

*3:三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』参照のこと