前田司郎「誰かが手を、握っているような気がしてならない」『群像10月号』

とりあえず、タイトルが長い、と都知事のようにケチをつけてみる。
あと、なんでそんなにみんなお尻が好きなの? とも思う。
まあそれはともかく、面白かった。
語り手をぐるぐると変えながら、とある四人家族についての物語が進んでいく。
文体や作り方は全く異なるが、保坂和志吉田修一と似ていることをやろうとしているのではないか、と感じた。
それはタイトルにもあるように、あるのだかないのだかよく分からない繋がりである。
孤独でもあるし、孤独でもないという人と人とのあり方だ*1
そのような作品を作る際に、視点をどうするか、ということが問題になるだろう。
特異的な視点ないしはポジションないしは道具立てだ。
保坂であればネコがいる*2し、吉田であれば気球がある。
それに対して前田は、神を持ってくる。
しかしこの神は、観念的な神ではないし、いわゆる神とも異なる。もっと具体的な存在である。いや、いやしくも神を名乗っている以上、非常に抽象的な面もあるわけだが。
こういった作品を成立させるために必要となる道具に対して、仮に神という記号を与えておくことにした、ともいえる。
例えば保坂であれば、そういう場合、神などとは言わずにネコというわけで、やはりそこは神などとは言わずに何かを用意してほしかった。神と言わずにネコと言うこと、それこそが物語を作るということだからだ。
しかし、そのことは次回作以降に期待するにとどめる。そのことは別にこの作品にとって決定的なマイナスとはなっていないからだ。
この作品においては、神という記号を使うことにもそれなりに意味があったように思う。
神が人の前に肉体を持って現れる、まさにお尻のシーンがよくできていたと思うからだ。


舞城、というか、うちのサークルのT君と文体というか語り口が似ている。
特に神の語り口はよかった。
何故か、ヴァンプ将軍と中村光のかく仏陀を足して2で割ったようなキャラを思い浮かべながら読んでいた。そういう物腰をしている神なのだ。
台詞で読点を三つ並べる表現、とかはよく意味が分からなかった。


群像 2007年 10月号 [雑誌]

群像 2007年 10月号 [雑誌]

*1:そしてなおかつ家族なのである

*2:阿部和重であればネズミか?