フレーゲ「意味と意義について」(現代哲学)

9月から11月まで、週に1本論文を読んできて、ディスカッションするという授業を取っています。
1回目の今週は「意味と意義について」
他の週の授業はこちら


意味=Bedeutung=reference
意義=Sinn=sense=「表示されたものの与えられる様態」
語の意味=指示対象
文の意味=真理値、文の意義=思想(文の内容)


「宵の明星」と「明けの明星」は、どちらも金星を意味referenceしている。
それで、天文学的知識が発達していなかった時代においては、「宵の明星」と「明けの明星」は別の物を意味referenceしていたのか、という質問が出た。
確かに一瞬そう考えてしまいそうだが、そうではない。「宵の明星」と「明けの明星」の意味referenceは、人類の知識とは全く関係なく、金星である。
つまり、その記号を使っている人が記号の指示対象について「知っている」ことと、事実としてその記号が「指示している」こととは、無関係なのである。
意味というのは、歴史とか時間とは関係なく、普遍的なものなのだと思う。
最初こういう説明を聞いて、腑に落ちない感じの人がすごく多かったのだけど、それはうちの学部の人あるいは人文系の人って、かなり相対主義的または歴史主義的な考え方をしているからじゃないか、とも思った。
真理、というものが、人間とは関係なく決まっている、ということが前提とされていることを理解しておかないと、分かりにくいのかもしれない。もっとも、こういうことを「前提」などという言葉で相対化してしまうあたり、僕も相対主義に毒されているのかもしれないw
文の意味とは真理値である、ということをフレーゲは言う。
これだけ聞いてもよく分からない話だが、意味というのは真理と関係しているようだということが分かると、確かに納得できる話だと思えた。
意義と意味の区別とは、フレーゲの以下のような疑問から生じたもの。
「A=A」と「A=B」が共に真だとする*1。しかし、明らかに認識的価値が高いのは後者である。一般的に意味と呼ばれているものが、意味referenceでしかないのであれば、この認識的価値の違いは説明できない。しかし、ここに意義senseというものを導入することで、この認識的価値の違いを説明できるようにしたわけだ。
意義、というのは、記号の与えられ方である。これはいわば恣意的なものだ。
そのような意義をもった記号が、一体如何なる意味(真理)を持っているのか。これを探るのが科学だということだ。
「明けの明星」という言葉の意味(=指示対象(ここでは金星))を探ること。
あるいは「明けの明星と宵の明星は同一の星である」という文の意味(=真理値(ここでは真))を探ること。


フレーゲは、意味と意義以外に表象という概念も導入している。
意味と意義は客観的なものだが、表象は主観的なものである。
フレーゲの、月を望遠鏡で観測する人のアナロジーを使うならば、月が意味、望遠鏡のレンズに映っているのが意義、その人の網膜像が表象である。
翻訳は表象にしか関わらない、とフレーゲは述べている。
これに対しては、最初疑問に感じたのだが、反例を見つけることができなかった。先生の話によると、やはり翻訳が表象にしか関わらないという点に対しての疑いは出ているらしい。しかし、その疑いを立証するのは困難のように思える。
フレーゲというのは、よくよく色々な例を考え込んだんだろうな、と思われる。


虚構の存在に対する言及もあった。
意義だけを持ち、意味を持たない記号ないし文になる、とのこと。
そのような記号のことは「像」と呼ぶことができる。舞台の上の役者や役者の発言は「像」である。

*1:というか、前者は必然的に真