『マインズ・アイ』ホフスタッター、デネット編著

心の哲学の入門書として有名なこの一冊。
論文集かと思いきや、開いてみると思いの外、SF短編が多く収録されている。
その理由は、デネットの以下のような言葉から窺えるかもしれない。

科学のもつストーリーを生み出す能力は、単に周辺的であったり、教育上の便宜であったりすることを越えて、科学そのものの究極目標にほかならない。すなわち、ある優秀な物理学の教師の表現を借りるならば、真の科学的営為は文学の一分野なのである。

全部で27の文章が収録されているが、その中で論文ないしフィクションではないものは、6つしかない。それ以外は、短編小説もしくは対話編である。
小説は、レムとボルヘスの短編が多く入っている。ホフスタッターの対話編もいくつかあり、『ゲーデルエッシャー・バッハ』に収録されたものも含まれている。
また、デネットによるフィクションも書かれている。これは、とある思考実験を、論文の形ではなく、そのままフィクションとして提示したものとなる。
論文に関していえば、チューリングチューリング・テストについての論文、ドーキンスの『利己的遺伝子』からの抜粋、サールの「中国語の部屋」に関する論文、ネーゲルのコウモリ論文が収録されている。
また、この本の最後には、ノージックによる「フィクション」という文章も収録されている。これは、この世界は神によって作られたフィクションであると主張する文章なのだが、フィクションかエッセイか判別することができないし、またそれを意図した文章である。
まず、揃えられた書き手の豪華さにおいて、手に取る価値は十分にあるだろう。
また、分析哲学ないし心の哲学でよくある思考実験と、SF小説との、際限ない近さが感じられる。
デネットスマリヤン*1が展開している設定は、イーガンによるそれを想起させる。もっとも、イーガンがデネットの影響を受けているのでそれは当然のことではあるのだが。


ここに収録されているのは、大体70年代に書かれたものが多い。
そのため、話の基本的アイデアとしてはもはやよく知られたものが多いように思うが、しかしそれが今でも、例えばイーガンなどによって使われていることなどを考えれば、古びているとはいえないだろう。
しかしそれでも、SF小説として読む分にはやや飽きる。ものすごく精巧に作られた箱庭的世界は、現実の世界と何が違うのか、という話が多い。シミュレートとエミュレートの違いについて、なんかは面白かったけど。
面白かったのは、やはり、サール論文とネーゲル論文か。この本は、全ての文章に対して、ホフスタッターもしくはデネットあるいは両者からのコメントがつけられているのだが、サール論文とネーゲル論文に関してはホフスタッターからの反論となっているのである。
基本的にこの本に収録されている文章は、ホフスタッター、デネット両者の考え方と近いものが選ばれている*2が、このサール論文とネーゲル論文に関しては、彼らとは対立するもので、ここで読者は彼らの考えを相対化して見ることができる。
特に面白いのは、やはりネーゲル論文である。
この論文はもちろん、心の哲学に関するものなのであるが、フィクションに関わる者が読んでも面白いように思う。というのも、「視点」に関する問題提起をしているからだ。
ネーゲルは、確かに主観/客観の区別を主張しているのであるが、一方で、主観と客観のグラデーションについても何某か言っているように読める。果たして、主観的とか客観的とかとは一体どういうことを言っているのだろうか。客観とは、多くの人(あるいは知性体)が共有する範囲での主観なのではないか、とか。
さらに、ホフスタッターの反論はこの考えを深めるだろう。ホフスタッターによれば、ネーゲルがコウモリになることは不可能である、というとき、「コウモリになる」とは一体誰がコウモリになるかという点を欠いている。
サールに関していえば、ホフスタッターの立場は、サールによって批判されたシステム説だろう。
サールの主張は、統語論(記号的操作)から意味論(ないし志向性)は生まれないということで、中国語の部屋の中の人が意味論を獲得していないのに、その中の人を要素と持つ部屋全体が意味論を獲得するわけがないということになる。
だが、ホフスタッターが「アリのフーガ」で再三主張していたことは、個別の要素レベルで見えてくることとシステム全体*3のレベルで見えてくることとは違うということだ。創発あるいは相転移のことだと思う。ホフスタッターはそもそも、意味論とか志向性とかいった言葉自体を認めないかもしれないが、あえて言うならば、意味論というのはシステムのレベルにおいて創発ないし相転移する、というのがホフスタッターの反論なのではないのか、と思う。
問題としては、サールの主張もホフスタッターの主張も、それを支える物的証拠に乏しいということだと思う。「アリのフーガ」で展開された様々なアナロジーが物的証拠として使えるなら、ホフスタッターの圧勝だが。まあそうでなくても、将来的にはホフスタッターが勝ちそうな気はする。
サールについてもネーゲルについても、やはりホフスタッターの方が論戦に勝っているように思える。
だが一方で、サールやネーゲルの主張するもの、ホフスタッターいうところの「BAT体験主体可能物」*4をどうにかして擁護したくもなるのである。*5
まあ、ホフスタッターのカメさんにかかれば、自分が一体何を擁護しようとしていたのか分からなくなってしまうのだろうが。


心の哲学」について、読み物として面白く、概観するには、しかし柴田正良『ロボットの心7つの哲学物語』を越えるものはなかなかないように思う。
この本は、もうだいぶ前に読んだもので、当時は「心の哲学」とか哲学者の名前などさっぱりわからずに読んでいた。最近、パラパラと読み返してみると、元ネタなんかが分かってきたり、実に「分析哲学的」な言い方が多いなあとが分かったりしたのだが、面白さは減じない。
あるいは、イーガンの小説を読むのも、自分で思考実験するための土台としてはいいかもしれない。


色々な話題が出てきているので、ざっとまとめてみる。
第1部私とは?
第1章「ボルヘスと私」ボルヘス
私「ボルヘス」と作家「ボルヘス」、どっちがほんとのボルヘスだろうか
第2章「頭がない私」ハーディング
文字通り、頭がない人の話。というか、現象学っぽいか。自分には自分の頭は直接知覚できない。
第3章「心の再発見」モロヴィッツ
シュレディンガーの猫によって、自然科学に観察者問題が持ち込まれたよね、という問題提起。
第2部魂を求めて
第4章「計算機械と知能」チューリング
チューリング・テストについて。予想されうる批判に対して予め反論している。
第5章「チューリング・テスト――喫茶店での会話」ホフスタッター
チューリング・テストとは何か。シミュレーションとは何か。機械とは何か。3人の学生による対話編。
第6章「王女イネファベル」レム
箱の中にシミュレートされた世界に入り込んでしまう話。
第7章「動物マーサの魂」ミーダナー
会話できるようになったチンパンジーの話。このチンパンジーに知性はあるやいなや。
第8話「動物マークⅢの魂」ミーダナー
あたかも動物のように動く機械の話。
第3部ハードウェアからソフトウェアへ
第9章「精神」ウィーリス
精神によって進化が起きたのではないだろうか。ここでいう精神は、ドーキンスのいう遺伝子に近い。
第10章「利己的な遺伝子と利己的な模伝子」ドーキンス
言わずとしれた遺伝子とミームについて。
第11章「前奏曲……アリのフーガ」ホフスタッター
個別なものと集合したものとの差
第12章「ある脳の物語」ズボフ
脳を培養槽につっこむ話。脳を分離したりしても同じパルスを与えてやれば同じ経験をするはず、ということがどんどんエスカレートして、最後には脳神経一つになってしまったりする。
第4部「心はプログラム」
第13章「私はどこにいるのか?」デネット
脳と身体を分離してしまう話。培養槽に入れられた脳が、遠く離れた身体を遠隔操作するというもの。ところが、身体が消滅してしまう。それから、培養槽に入れられた脳のバックアップが作られるのだが、培養槽の脳とバックアップの脳とどっちが本物だろうか?
第14章「私はどこにいたのか?」サンフォード
デネットの話を受けて。脳と身体は分離されていないが、完全に遠隔操作可能なロボットと一体化したとしたらどうなるのか。
第15章「拒否反応を越えて」ライバー
心を他の身体に移植する話。
第16章「ソフトウェア」ラッカー
自意識を持ったロボットが死ぬ。死んでも、バックアップがあるから蘇るのだが、果たしてそうやって蘇った自分と今死にゆく自分は同一か。
第17章「宇宙の謎とその解決」チャーニアク
ある「謎」というプログラム(?)を読むと死んでしまう、という話。
第5部創られた私と自由意志
第18章「第七番目の旅」レム
ある暴君のために、完全な箱庭惑星を創った賢者。賢者は、暴君の気も紛れるし、暴君の被害になる民もいない完璧な策だと思ったが、相方に箱庭惑星の住民にとってひどく残酷なことをしたのだと指摘される。
第19章「我が身、僕にあらざらんことを」レム
レムの架空書評の一つ。数学の世界に生きる人工知性体パーソノイドについての研究報告。彼らの神学論争に対して、神である人間はどうやって振る舞うべきか。
第20章「神は道教徒か」スマリヤン
自由意志をめぐる、人間と神との対話。自由意志と決定論は矛盾なく両立する。それは、「私」という個体と自然法則あるいは神という全体とを区別しないことによって成立する。
第21章「円形の廃墟」ボルヘス
夢がうつつか、うつつが夢か、みたいな話。
第22章「心・脳・プログラム」サール
中国語の部屋とそれに対する反論への再反論。
第23章「ある不幸な二元論者の話」スマリヤン
魂を消す(身体は魂が消えても魂が消える前と同じように動き続ける)薬を飲んだ二元論者が、魂が消えなかったぞといって怒る話。
第6部内なる眼
第24章「コウモリであることはいかなることか?」ネーゲル
還元主義に対する批判。主観的体験を客観的に記述することは可能か否や
第25章「認識論的悪夢」スマリヤン
自分の考えていることがどういうことか、脳を読み取る機械を使わないと分からなくなってしまった学者の話。「自分は〜と信じている」という言明をどうやって証明すればいいのか。
第26章「アインシュタインの脳との会話」ホフスタッター
アインシュタインの脳の全ての神経の刺激への閾値などを記録した本に、アインシュタインの心(?)はあるのか。レコードに音楽は入っているのか、という話が、最初にアナロジーとして使われる。
第27章「フィクション」ノージック

マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈下〉

マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈下〉

マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈上〉

マインズ・アイ―コンピュータ時代の「心」と「私」〈上〉

*1:アメリカの数理論理学者。この本には対話編を含む3編のフィクションが収録されている

*2:本人によるものも含まれているし

*3:全体という言葉は使うべきではないかもしれない。全体と思われていたシステムも、さらに巨大なシステムの要素でありうる

*4:ホフスタッターによって、「魂」「霊魂」「志向性」「意識」「主体であること」「内面的な生をもつこと」「体験を持つこと」「視点を持つこと」「何かについての知覚」「人格性」「自我」「自由意志」「意味論的」などと言い換えられている。これらのリストに「クオリア」を加えることも可能だと思う

*5:ネーゲル論文を読んで思ったのは、やっぱり現象学的なものの見方も必要だよなあとかいうこと