『SFマガジン』
円城塔「Boy'sSurface」
円城の語り口の魅力というのがあって、どんなわけのわからない話をされても、何となく楽しく読めてしまう。
立ち読みで一読しただけでは、残念ながら話の核のようなものはよくわからなかった。
ただ、語り口の面白さ、エピソードの面白さなんかはわかった。
自己言及とかインナーアイの外部化とかそういうことと、恋愛(コミュニケーション)の不可能性とかそういうこととか、面白そうなんだけどそれがどうつながっていったのかが、いまいちよく分からなかった。
宇野
も読んだ。
読んだ、というか、パラパラと眺めた。
まあそうだよねーとは思うんだけどね(^^;
その他
ヴォネガット追悼はパラパラと眺める程度。
ヴォネガットは自分がSFと言われるのを嫌がった。というのも、彼にとってSFというのは、仲間同士の馴れ合い所帯と見えていたから、らしい。
馴れ合い所帯だからこそ、SFはジャンルとして強固になっていったともいえると思うけど。
SF大会のレポートがあったけど、写真を初めて見たので、こんな感じなのかーと思った。
誰か一緒に行きませんか?
円城塔と伊藤計劃のトークショー&サイン会があるらしい。
詳しくはhttp://sanseido-eventhonten.hontsuna.net/article/1909082.html
『文学』特集「SF」
人類にとって文学とは何か
紀伊国屋主催のシンポジウム。
小松左京,瀬名秀明,スーザン・J.ネイピア,巽孝之(司会)
スーザン・ネイピアって何となく名前を知っていたけど、何をしていたのか知らなかったのだけど、日本アニメに見られるアポカリプスについて研究していたらしい。
アメリカ人の女性学者が日本アニメについてどんと研究書を書いていたのは知っていたんだけど。
もちろん、小松左京といえば『日本沈没』*1
それを軸に、未来を指向する文学としてのSFというものが語られる。
瀬名は、未来を指向する人類の営みとして、科学と文学があると考えて、その境界を重視する。
ネイピアは、『日本沈没』と『人類の子供たち』を比較して、どちらにも「エレジーモード」があるという。終わりを受け入れることと過去へのノスタルジア。
小松は、人類にとって文学というタイトルを、宇宙にとって文学とは何か、と読み替える。宇宙にとって生命とは何か、宇宙にとって人類とは何か、そして宇宙にとって文学とは何か。
生命→知性→物語となるのではないか。
物語へ注目することに関して、巽*2、瀬名*3、ネイピア*4が同意して終わる。
ポストモダンはSFを夢みる
SF批評理論史をまとめた論文。
ミステリは、モダニズムの文学であり、認識論的な文学。
SFは、ポストモダニズムの文学であり、存在論的な文学。
というのが面白かった。
ミステリは、最後に、状況への見方を変えることで、違う意味を見出す(認識論的)。
SFは、そもそも全く新しい状況を作り出す(存在論的)。
それがなんで、モダンとポストモダンに対応するのか、いまいち分からなかったが。
その他
岩波で、しかも『文学』という身も蓋もないタイトルの雑誌で、しかも特集が「SF」という、これまたどシンプルで、どんなものが並んでいるかというと。
安部公房とSF、日本SFについて、ソ連SFについて、ドイツSFについて、フランスSFについて、SFとジェンダー、SF批評理論史などで、さすがというかなんというか
ユリイカとかだったら、ちょっと並ばないよな、これは、と思う。
http://www.iwanami.co.jp/bungaku/index.html
その他
今日の新聞で、石川忠司がケータイ小説について触れていた。
クラシック→ポップ→テクノという音楽の流れに則って、ケータイ小説を小説の「終わり」とみる。
つまり、長くて色々と分析しながら楽しむ形態のクラシックが、ポップにおいてはぎゅっと圧縮され、テクノに至っては、精神的な部分は削られ快楽を得られるものだけを抽出された。
あるジャンルの「終わり」とは、快楽的な要素だけで構成されることだとした上で、ただ感動という快楽だけに特化したケータイ小説を、小説の「終わり」と捉えるのである。
非常に限られた紙面だったので、非常に雑駁なスケッチだとは思うが、何となくそんな感じはする。
この「終わり」という語も、石川は必ずしも否定的なニュアンスで使っていないのだと思う。