『アサッテの人』諏訪哲史

芥川賞が載ったので、文藝春秋を読んできた。
あと、群像と文學界にそれぞれ、諏訪哲史へのインタビューがあったのでそれも読んだ。

『アサッテの人』

一言でまとめてしまうならば、「詩的(私的)言語は可能か」*1というテーマについての話。
そんな話は前このブログでしていた。

ローティはこれをさらに拡大解釈して、このような「異化」を行うこと=メタファーをつくることが自己創造であると考え、自己創造を行う人のことを詩人と呼んだ。
ちなみに、ロシア・フォルマリズムでは、「異化」を担う言葉のことを「詩的言語」と呼ぶ。
さて、この「異化」というのは、続いて「自動化」というのを引き起こす。
「異化」作用のある「詩的言語」は、確かに最初「人の目に障り、耳につく」のだが、人はそのよう表現に対して次第に慣れていってしまう。新奇な表現も、いずれ違和感を覚えなくなり、普通に使うようになっていく。これが「自動化」である。

http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20070112/1168602514

「アサッテ」というのは、つまり異化のことなのではないか、と思う。
そしてそれは、詩的であると同時に私的だ。
だから、「チューリップ男」は誰にも見られないようにするし、叔父の日記が次第に内向的になっていくような感じもそのせいだと思う。
(ある時期の)ウィトゲンシュタインによれば、私的言語は不可能だ。それは「言語のようなもの」かもしれないが、結局は言語のまがい物である。
しかし、本当にそうなんだろうか。
言語というものには、「言語のようなもの」かもしれないが、詩的かつ私的なものを生み出そうとする機構が備わっているように思えてならない。
上で、異化という言葉を持ち出してきたのもそのためだ。
そしてこれは言語の問題であると同時に、芸術の問題でもあると思う。
芸術とは、どのように異化作用をもたらすか、ということを目的とする行いだとも解することができる、特に、ダダ以降の現代アートというのは。*2
「アサッテ」を、そのような言語/芸術の問題として捉えることができる
一方で、単純に、日常で生活するにおいても、不意に「アサッテ」なことがしたくなるという衝動は、確かに誰にでもあるように思える*3
ただし、この小説は確かに「「アサッテ」つまり詩的かつ私的言語は可能か」という問いを発し、その可能性を描こうとするが、作品そのものは詩的・私的言語で綴られているわけでは全くない。
ダダの詩などは、「可能か」という問いに対して、まさにそのような言語(のようなもの?)で作品を綴ることで答えてみせるわけだが。
「詩的・私的言語は可能か」という問いに苦しむのは、登場人物の叔父であって、作品自体ではないような気もする。
しかし、そのような苦しむ登場人物を書くことによって、作品そのものがその問いを発しているのも確かであって、この点に関してはよく分からない。
だが、このことによる利点はよく分かる。つまり、読みやすいということだ。
小説はよく読むけれど、芥川賞とかとるような小説は苦手だな、と思っているような人でも、読みやすいと思う。それでいて、テーマは非常に「文学的」もしくは「哲学的」だ。

選評

芥川賞というイベントは、作品そのものよりも、選評が面白いことが多い。
というわけで、ここ何年かは、作品を読まずに選評だけ読んでいることが多かったりする。
この選評というのは、到着順に並ぶ。
トップバッターは小川洋子川上弘美の、新審査員だ。
この二人、芥川賞の選評としては珍しく(!)、受賞作をベタ褒め。つづく、池澤夏樹も絶賛していたが、4人目がお待ちかねの都知事で、予想通りの都知事節炸裂で大いに笑わせてもらった。
「タイトルくらいまともにつけろ!」と、候補作のタイトルにご立腹の様子も、大衆の期待を裏切らない、見事なパフォーマンスぶり。
村上龍山田詠美*4も、期待通りのコメントをしてくれた。
今回は、候補作が候補作だっただけに、いつにもまして、選考委員のセンセー方はそのポジション芸を余すところなく発揮してくれたように思える。
一つ、マジでツッコミを入れておきたいのはやっぱり龍。結局は「コミュニケーション不全」と「生きにくさ」しか描いていない、と受賞作に対して述べていたけれど、確か小川洋子が言っていたと思うが、言語の問題を扱っているのにコミュニケーションの問題を扱わなかった点がこの作品のよいとこなんじゃないの。少なくとも都知事はその点はおさえていたように思う。

インタビュー

群像の方は、インタビューじゃなくて対談だけど。
「アサッテの人」は、普通に面白い作品だけど、何というかむしろ、この作者の諏訪哲史という人の方がよっぽど面白いように思えたインタビューだった。
その面白さというのは、辿っている人生の遍歴についてなので、ここでくだくだ述べてもどうしようもない。
大学時代の先生、種村季弘に認められるようなものを書く、という一心で書いた小説が「アサッテの人」で、ようやく面白いと言われたなんだけど
群像の対談相手は、種村季弘の同僚で諏訪哲志のもう一人の恩師なんだけど、当時、種村は彼に諏訪の新作が面白いということを言っていたらしいが、諏訪はそのことを知らなくて、対談で初めて知らされた。で、それを聞いた瞬間、思わず正座して姿勢を正したらしい。そういう注が付記されていた。
20代後半で「アサッテの人」を書いた後、30代は父親だかの介護をしていたらしい。それで、いわゆる現代文学には疎い、ということをエッセイとして書いている。
J文学もラノベもケータイもなんだそりゃの浦島太郎状態らしいのだけど、そこで諏訪がそのエッセイで言っているのが、古今東西全ての文学作品のランキングを作れないだろうか、という話。これ、なかなか面白いと思った。一方で、もしそんなランキングができたら「読書体験が貧困でごめんなさい」ってことになるなあとも思った。

文藝春秋 2007年 09月号 [雑誌]

文藝春秋 2007年 09月号 [雑誌]

*1:詩的(私的)に関して、コメント欄に訂正あり

*2:だから、芸術作品が、真に驚きによって受け止めることができるのは、その当時の人間か、その当時の文脈を完全に理解できた人だけであるように思う。文脈があるからこそ、驚きを感じることができる。文脈を共有できなければ驚きを感じるのは難しい。現代アートがあまり一般に受けないのであるとすれば、共有すべき文脈がアートの世界に限られてしまっているからなのだろう。あるいは、自動化の作用をさらに高速で被っているせいか

*3:この種の衝動を抱えている友人を何人か知っている。高校時代の友人と飲んでいたとき、彼は、「アサッテ」という言葉は使わなかったけれども、「アサッテ」なことがしたいけれど今はなかなか何をしても「アサッテ」にならない、ということを言っていたのだと思う。ちなみにこの「今」というのは、「現代」という時代という意味もあるし、子供ではなく大人になってしまった今、という意味もある

*4:この人はいつもオチを飾ってくれる