セカイ系とかについての整理

黙示録的想像力の系譜(八〇年代/九〇年代/ゼロ年代)
という文章を書いた。
この文章は、本来ならば、『虐殺器官』論の前説である。それ故、本当は、『虐殺器官』論を書き上げてから公開するのが筋である*1
それが結局、『虐殺器官』論本体よりも先に書き上げて、あまつさえ先にこの文章だけ公開することにしたのは、ひとえに「ゼロ年代の本当の想像力1(らいたーずのーと)*2というエントリからの影響である。


さて、この文章は、あくまでもラフスケッチであって、セカイ系についての歴史でも定義でも理論でもない。自分の中ではこんなイメージだよーということだけで、アイデアの断片を連ねているだけで、色々な意味で不完全なものである*3
だがしかし、それで何故こんな文章を公開するのかというと、ネットの面白さというものに乗っかりたいと思ったからでもある。
というのも、この文章の内容と、上述した「ゼロ年代の本当の想像力」というエントリの内容は、アプローチの仕方がかなり違うのだけど、それ故に互いに補完し合うものになりえると思っている。
さらには、ブログ「想像でものを書くものは銃殺刑を覚悟せよ」とか、ブログ「デイジーチェイン・アラウンド・ザ・ワールド」とか、エントリ「馴致される戦闘美少女と「罪と罰」(2)」(BLUE ON BLUE (XPD SIDE))とかとも、なんか色々繋がりうるのではないか、などとも勝手に思っている。
そうすると、一人でうだうだ考えているよりも、公開することで何かしらもらえればいいなあ、という次第である。


さらにもう少し、この文章について説明すると、
このイラストレーションは、東浩紀的なものではなく、仲俣暁生的なものである。
東用語を使うのであれば、環境分析的読解ではなく、自然主義的読解だ。
まあそれがどうした、という話もある。環境分析的読解と自然主義的読解とは、結局のところは区別できるものではないとも思う。
状況認識というものに関しては、東も仲俣もあるいは宇野も、そしておそらくこの文章も大して変わらないのであって、あとはそれをどう使うかということで色々と差異が出てくるのだろう。


追記(070806)
中状況の衰退に対する興味深い処理として、『魔法陣グルグル』と『ダブルブリッド』がありと思う。どちらの作品も、処理に失敗してしまっていることが、逆にセカイ系(もしくは原-セカイ系)の境界を炙り出しているように思える。

*1:そしてそもそもの予定としては、『虐殺器官』論を9月に書いて、この文章は10月頃に書くつもりであった

*2:に続く。

*3:そして、この文章で出している不完全なアイデアを練り上げていくつもりも、実はない。というのも、やはり自分の中でこの文章は、『虐殺器官』論の前説というポジションでしかないからだ。