ポール・オースター『シティ・オブ・グラス』

ヴォネガットはSFという形式を使って、オースターはミステリという形式を使って、しかしSFでもミステリでもない何かを書こうとした。
その何かとは、つまり、固有性の喪失なのではないだろうか。
スローターハウス5*1というのは、「そういうものだ」という言い回しによって、ある種の体験の特権性を剥ぎ取ろうとしていた。つまり、「死」とは特別なことではないということだ。そして「死」の特権性を剥ぎ取ることによってようやく、ドレスデン爆撃について書くことができたのだろう。
オースターでは、『幽霊たち』*2にしろこの『グラス・オブ・シティ』にしろ、登場人物から固有名詞が剥奪されている。いや、剥奪、というのは正確ではない。彼らにはれっきとした名前がある。しかしもはやそれが意味をなしていない。主人公のクィンは、ウィリアム・ウィルソン名義で作家をしているが、引きこもりのような生活をしていて、社会的にはクィンという人間はいないようなものだ。そんなクィンに間違い電話がかかってくる。それは私立探偵ポール・オースターへの依頼で、クィンは探偵オースターのふりをその依頼を受けるのである。また、作家としてのクィンの経歴は、『グラス・オブ・シティ』の作者であるところのオースターの経歴と似ている。さらには、話が進むにつれて、この話の中にもポール・オースターという名前の作家が登場してくる。
訳者あとがきにもあるように、何重にも「代理」の人間ばかりが出てくるのである。
オースターにとっては、言葉もテーマになっている。
言葉が、現実を写し取ることは果たして可能なのだろうか*3。いや、おそらく不可能だ。だとすると、言葉を使うとは、何かを書くとは一体どういうことなのか。そういうテーマである。
子どもを隔離して育てることで、「自然言語」を調べようとした試みが過去にある。バベルの塔以前の言葉だ。そのような言葉は、現実を完全に写し取ることのできる完璧な言語だと考えて、その言葉を蘇らせようとする教授が出てくるのだ。この試みはうまくいかない。だが、どうしてうまくいかなかったのか、そもそも何をしようとしていたのか、よく分からないまま話は進み、そして終わる。
主人公のクィンは、その謎を解き明かすことではなく、もっと些細なことに偏執狂的にのめり込んでいった。その中には、赤いノートにその日の記録を書き付ける、ということがある。その記録の雑さと細かさ。


いわば「文学」っぽいテーマが詰め込まれているわけだが、それを「ミステリ」の形式によって軽やかに進めていく。もっともこの作品を「ミステリ」として読んでしまうと、「なんじゃこりゃ」ということになってしまうけれども、この形式に則ることで物語にドライブ感が出て、「文学」としては読み進めやすい、のではないかと思う。
佐藤友哉舞城王太郎なんかより、よっぽどスマートだしね。


神Godを逆から読むと犬dogになる、という下りがあるのだけど、とある書評によるとオースターの『ティンブクトゥ』という作品は犬が主人公らしい。その書評では、犬dogを逆さから読むと、というタイトルだった。


あと、そういえば、途中からあまり気にならなくなったので、事前の知識のせいでそう思っただけかもしれないけれど、柴田訳の方で読んでみたいな、と思った。

シティ・オヴ・グラス (角川文庫)

シティ・オヴ・グラス (角川文庫)