最近のこと色々(SIGHTとか夏の100冊とか)

東浩紀筒井康隆の対談(『群像7月号』)

これ、あまり期待しないで読んだら、よかった。
ぎゅうっと濃縮されている感じがする。
他の文学史とも繋がってるんだよ、っていうのはよかったと思う。
しかし、結局文学について素養がないと全然分からない、困った。
誤解を恐れずにものすごく要約すると、東は「最近の若い人は本を読まない」と嘆いている。全くその通りだと思う。読まなきゃいけないなあと自戒をこめてそう思う*1
東はメタフィクションを二つに分けている。
一つは、作者が出てくるタイプのメタフィクション。もう一つは、読者が出てくるあるいは作者と読者のインタラクションがあるメタフィクション
東が注目するのは後者であって、前者ではない。
これを読んで何だか自信を持てた。今、佐藤友哉論と阿部和重論を準備中*2で、それに対する自信。多分、そんなに外してないんじゃないかという。

前田累の『ゲーム的リアリズムの誕生』評(『小説トリッパー2007年夏号』)

以前はいくつか読んでいた小説トリッパーも、斎藤環の連載が終わって読む気がなくなった。
これもざっと目を通しただけで、あんまりちゃんと読んでいない。
ただ、環境分析という東の手法を高く評価していた。
それも、環境分析で、従来の批評の手法と大して違わないんじゃないのっていう批判に対する答えを伴って。
前田は、環境分析という手法が、確かに全く新しい東オリジナルの方法だとは考えていない。自然主義的読解と環境分析的読解とを分けてしまうやり方が強引だということは認めている。
だが、その上で、環境分析という名前をわざわざつけてこの方法を作ったことは評価している。
テクスト外現実がテクストを決定しているわけでもなく、テクストが自律しているわけでもなく、テクスト外現実とテクストがインタラクションしているということを分析しようとしているから*3

SIGHT(2007/6/30発売号)

●インタヴュー 大芝亮(一橋大学大学院教授)「自称・現実主義者」を斬る――「勝てない戦争はやらない。それが現実主義者です」
●対談 高橋源一郎×斎藤美奈子 なぜ、我々は政治を、社会を、日本を批評し続けるのか
東浩紀ジャーナル
を読んできた。
高橋源一郎曰く、文学も政治も、相手を納得させるように言葉を使う点で同じ。
結局、いわゆる「左翼」というのは、長いこと、相手を納得させる言葉を使う努力をしてこなかったんだろうなあと思う。むしろ、いわゆる「右翼」の方が、そういう努力をしてきた。
そして未だに、「左翼」はそういう努力をしていないし、よしんばしていたとしても実っていない。
で、結局、別に「左翼」ではないような人たちがむしろ、新しい言葉を作る努力をする羽目に陥ってしまっているんじゃないだろうか。
でも、SIGHTが本屋では普通に文芸誌、論壇誌のコーナーにあるのはもったいないよね。
元々は全然違う雑誌だったんでしょ? それなのにこういうことやっている、というところに、問題もあるのだけど、意義もあるだろうと思う。
そういう点で、かつて大塚英志が突然ニュータイプでの連載でアジ演説始めたのとか、広告批評日本国憲法特集とか、ああいう試みはよいと思っていて、別にそれをしていないSIGHTが悪いというわけではなくて、そのポテンシャルをうまく発揮できていなくて残念、という話。
あと、最近「左翼」はやっぱり頭悪いと思ったのは、9条ネットなるところが参院選に出馬していたこと。護憲票を共産、社民と食い合って自滅しないか、それ、と思う。


東浩紀は、萱野稔人との対談をまとめていた。
国家には、暴力の管理と富の再分配という役割がある。
東は、国家は前者だけやればいいのであって後者はやらなくていい、と考える。
萱野は、両者は切り分けることができないので、両方やらなくてはいけない、と考える。
どっちにしろ、富の再分配はやるべきだ、という点では二人とも同じなので、二人とも左派ではあるのだが、しかしここには対立があるのである。
右とか左とか、リベとかネオリベとか、そうやって対立図式作っているけれど、それとは全く異なる対立図式だってあるんだよってことを示すことができてよかった、と東は述べている。
最近東はあちこちで、リバタリアンと自称しはじめている*4
しかし、僕の理解では、東のこの主張はリバタリアニズムではない。
立岩真也のリバタリアニズム批判『リバタリアニズム読本』を読むと分かるが、リバタリアンの主張の根幹にあるのは「所有権の自由」だ*5。再分配政策をやけに嫌がるのもリバタリアンだ。ただし、彼らは再分配自体を否定はしない。だが、それはボランティアに基づくとも主張している。
東の考える、再分配の民営化は、色々な面でリバタリアニズムと非常によく似ている。
しかし、何かその根幹にある部分においてはかなり違うのではないかとも思う。リバタリアンの描く理想社会と、東の思い描く理想社会は、おそらく見た目の上ではよく似ているが、しかし差異があるように思えてならない。
例えば、リバタリアンは「所有権」を非常に重視するが、そのためにはまず近代的自己が前提となっている。まず確たる個人としての自己があるからこそ、所有権もありうる。その点、東はそのような確たる個をそれほど自明視していないように思える。
リバタリアンモダニストであるなら、東は明らかにポストモダニストだ。
もし仮に、政治的立場というのが、保守、コミュニタリアン、リベラル、リバタリアンの4つに分けられるとすると、僕はリベラルとリバタリアンの間にある。
リバタリアンの立場に僕が立てない理由の一つは、リバタリアンが再分配を望まない点にある。僕はまだコミュニタリアンの思想をちゃんとは理解していない*6ので何とも言えないのだが、コミュニタリアンよりリバタリアンの方が自分の考えに近いのではないかと思っている。でも、いくつかの差異によってリベラルと自分のことをラベリングしている。
さて、東が「リバタリアン」と呼ぶ東の考えは、僕がどうしてもリバタリアンにはなれないと思っている部分をリバタリアニズムからちょうど差し引いたものになっている。
もし東の考えが、リバタリアニズムとイコールなら、僕はリバタリアンでいい。でも、僕は東の考えとリバタリアニズムはイコールではないと考えていて、そのイコールでない部分にこそ、僕がリバタリアニズムを批判する理由がある。


さて、その差異を東が一体どこまで意識あるいは重視しているかは分からないのだが、全く気付いていないと言うことはないと思う。
その上で、何故最近の東は、自分のことをやけに「リバタリアン」と規定し、北田や萱野との差異を強調しようとするのだろうか。
これは、『動物化する世界の中で』や波状言論をやっていた頃あるいは「ゼロ年代の批評の地平」とは明らかに違う。
あの頃は、自分の立場がどこにあるのかをはっきり決められない状態をずっと彷徨っていた。
しかし今は、自分の立場をやけに明確に定めようとしている。
よいことか悪いことかは分からないが、何というか本気になったのではないだろうか。

夏の100冊

本屋に行ったので、新潮文庫と角川文庫の夏の100冊をもらってきた。
中学とかでは毎年学校で配られていた気がする。
眺めるだけ眺めて結局どの本も読まないんだけど。


新潮の方は、「名作」「現代文学」「海外文学」「エッセイノンフィクション」という括り。
現代文学」のページを開くと、湯本香樹美の『夏の庭』があって、
「この本(読んでないけど)、夏の100冊の定番だよなあ」と思って隣を見ると
森見登美彦太陽の塔』が!
直木賞にもノミネートされましたけど、モリミーすごいなあ、読んでないけど。


で、角川の方。
こっちは「恋する」とか「泣く」とか「たのしむ」とか「驚く」とかでカテゴライズされている。まあ角川らしい。
で、次に読む本とかも書いてある。例えば、江國香織落下する夕方』の次は角田光代『幸福な遊戯』だとか、『こころ』の次は『人間失格』だとか、東野圭吾『殺人の門』の次は重松清『疾走』だとか、『ドグラ・マグラ』の次は『犬神家の一族』だとか*7
さて、この次に読むを辿るうちに、面白いループを発見した。
その名もハルヒループ。
はい、そうです。今年の角川夏の100冊には、『涼宮ハルヒの憂鬱』が入っています*8
『憂鬱』の次に読む本は?
ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ
→『GOTH』
→『失はれる物語』*9
→『きまぐれロボット』
→『宇宙の声』
→『ブレイブ・ストーリー
→『時をかける少女
→『セーラー服と機関銃
→『涼宮ハルヒの憂鬱
このループを発見したときは、「うわ、ハルヒからハルヒにループしちゃったよ」って思ったのですが、中学生あたりには意外といいかもしれないとも思ったりしました。
ラノベだ、ラノベだーって思って読み進めているうちに、星新一筒井康隆にちゃんと連れていってくれるのですから。まあ、一周してすぐに戻って来ちゃいますけどねー

最近のカラオケ

カラオケに久しぶりに行きました、それも2回ほど。
最近のカラオケには、ホフディランの曲が増えてきているんですよ、これが。
昔は、「恋幻*10」しか入っていなかったものです。
そして「そんなマイナーなもの歌わないでよ」とか言われたこともあります、恋幻なのに。
時代はなんだかすっかり変わるものでw
まさか、『スロウインファストアウト』とか『車は進んで僕を見る』をカラオケで歌える日が来るとは夢にも思っていませんでした。
あら、どちらもユウヒだ。
2回行ったそれぞれ、別の機種で、「スロウイン」と「車は進んで」もそれぞれ別の機種だったのだけど、どちらにもまだ『サガラミドリさん』は入っていないようです。


SIGHT (サイト) 2007年 08月号 [雑誌]

SIGHT (サイト) 2007年 08月号 [雑誌]

多摩川レコード

多摩川レコード

*1:東って、「若い人は本を読まないけどネットやってるから仕方ないんだよ」とか言いそうな気ももしかしたらするかもしれないけれど、『動物化する世界の中で』なんかを読むと、東はやっぱり「若い人が本を読まない」のを嘆く立場に立っていて、笠井の方がむしろ「それは仕方ないよ」って言ってたりする。

*2:このブログでちゃんと公開できるのは10月か11月の予定

*3:上で書いた、佐藤論。阿部論は、『ゲーム的リアリズムの誕生』に対する応答というか応用というかそういう感じで、最初はむしろ批判的継承を目指していたのだけど、最近結局『ゲーム的リアリズムの誕生』に戻ってくる感じがしている

*4:直接リバタリアンという言葉は使っていなかったかもしれないけど『東京から考える』、ギートステイト、東本人のブログ、そしてこのSIGHT

*5:フランスとイギリスでは自由への考え方が違うと聞いたことがある。前者は、生存権の自由、後者は、所有権の自由を強調する。リバタリアンは確かに、自分たちの思想の源をアダム・スミスとかイギリス系の思想家に求めている気がする、いや、これは確かではないけど

*6:コミュニタリアンの側に立った解説を読んでいない

*7:単なる例として出したけど、これらもこれらでツッコミどころがありそうな気がする

*8:それより問題なのは山田悠介じゃないのって思うけど、まあいいや

*9:同じ作者へと行くパターンも結構多い、このシステム

*10:こいまぼ、と読む。正確には『恋はいつも幻のように』