サブカルチャーとかカルチュラルスタディーズとか

今日は、集中授業で学校行ってた。
内容は、戦後アメリカ文化論とでもいえばいいか。
それで50年代後半くらいからの若者のカウンターカルチャーの話になった。
簡単にまとめれば、
大人たちの作ったものを如何にアプロプリエーション(換骨奪胎)するか、というのがカウンターカルチャー
最初は大人が大人のためにつくったもの(自動車、ドライブイン、カーラジオ、ジャズ、ブルース)を、大人の想定しなかった使い方をする若者たち*1
何でこんなことを書くかというと、最近読んだブログを思い出したから。

TBSのラジオ番組で、社会学者の鈴木謙介がパーソナリティを務めている「文科系トークラジオ Life」ってのがあって、僕はいつもpodcastを利用して聞いているのだけれど、前回の「若者文化」についての話は面白かった。特筆すべきは前半部分で、要約すると、「若者文化」と一口に言っても、それは文化を消費する側=消費者と、文化を作り出す側=担い手という2つの側面を見る必要がある、そして1970年代から1980年代にかけて「若者文化」が花開いたとき、彼らは若者文化の消費者でありながら担い手でもあった。太陽族とかタケノコ族といった「族」と分類された人々は、消費者であったと同時に、その後担い手として若者文化を作り出す側に回ることになる。
しかし後続の世代は、その文化を形容する際「オタク系」とか「B系」とかいった風に、「系」というより軽いタッチの言葉でくくられるようになった。「族」と「系」の違いは、前者が担い手としての立場を含むのに対し、「系」は完全に消費者としての立場を全面化させた言葉であるという点だ。

http://d.hatena.ne.jp/klov/20070627/1182939804

今の若者は、消費ばかりで生産していない、ということなんだろうか。
しかし、若者文化が生まれたときから、若者というのは消費する側で生産する側ではない。
そもそも若者文化なるものが注目されるようになったのは、若者が教育をしっかり受けるようになって、労働者ではなくなったことによる。10代後半から20代前半の若者たちが、働かなくてもいいようになったために、彼らは他の世代とは異なる消費を行うようになった。
もうひとつ、別のブログから引用。

彼らは大人が作った雛形に、自分の経験を当て嵌めて遊んでいるだけなのですから。

http://d.hatena.ne.jp/kotorikotoriko/20070629/1183055970


これはケータイ小説についてのコメントだが、若者文化全般について言い当てていると思う。
若者、というのは、そもそもにおいて生産の担い手ではないことを許された、いわゆるモラトリアムにあるわけだから、別に若者文化を「作って」などはいない。
若者が消費するから若者文化なわけだ。
さて、上の引用にしろ、下の引用にしろ、若者自身が若者文化を作っているわけではないことに対して、直接的な価値判断はしていない。ただ、少なくともあまり肯定的な評価はしていないような気がする*2
でも、だから何だというのだ、と言いたい。
若者文化というのは、結局のところ、大人たちの作ったものを若者が消費しているだけだ、という話になると、出てきやすいのが、大人たちに搾取されてるんじゃないか、という話だと思うのだけど、それはちょっと待とう、というのが今回の記事の主題。
自動車とかラジオとか、大人たちが作った大人たちと同じものを使っているのに、その使い方に差異がある。
それによって、自分たちを主張するのが、最初のカウンターカルチャーだ。
そうやって、他の世代との差異(例えば奇抜なファッションとか若者言葉)を生むのが、文化が生まれる、ということなのではないだろうか。
それを見つけて商売を始める大人は勿論いるが、そうやって大人が商売をしてくれるからこそ、若者の側も差異のゲームをやることができる。新しいモノを「作って」いるわけではないが、そこに何か今までとは異なる別の何かが生まれてはいる。
それは搾取とは違う気がするし、単なる子どもの遊び、というわけでもないんじゃないかと思うわけだ。
つまり、差異を積み上げていくことこそが、文化そのものではないだろうか、ということ。


さてと、その上で、現代の「若者文化」に何か問題があるとしたら
差異の蓄積が限界まで到達してしまった、というところにありそうだ。
現代アートの世界や音楽の世界なんかを見るとよく分かる気がする。
もはや、おおよそのものは出尽くしている感がある。そしてジャンルの細分化が進みまくっているが、そのせいで誰にもわからないような状況になりつつある。
これは、サブカルチャー老いの問題なのではないだろうか。
50年代から60年代にかけて生まれた「若者文化」を担った人々は、今50〜60代になり、未だに同じ文化を担い続けている。

形式的実験の追求にはどうしても限界がある。これは『湾岸』で描かれたチューニングの歴史でも主題になっていますよね。かつて90年代の初め、どんどんスペックアップをして、最速を競い合っていた時代がある。けれどもみなが徐々にゲームから降り、いまや速さを求める人間はいなくなってしまった。(中略)
僕はこの点で、『湾岸』の主題は、時代の変化と同時に、「老い」の問題でもあると思うんです。サブカルチャーは一般に、老いの問題にとても弱い。これは当たり前で、70年代までの初期のサブカルチャーは、単純に反体制的であり、若者が担うものだったわけです。しかしそれ以降、サブカルチャーの歴史的な蓄積が増えていくなかで、30代、40代になってもサブカルチャーの担い手であることが可能になっていった。その結果、いまやサブカルチャーの担い手自身が老いているわけで、マンガだからといって20代の文化だとはとても言えない状況になっている。

http://www.tinami.com/x/interview/03/page9.html

以上は、東浩紀による、阿部和重と砂へのインタビューでの東の発言。このインタビューでは、『頭文字D』と『湾岸ミッドナイト』を取り上げているのだが、後者では「老い」に対してどのように対処すればいいのか、ということが書かれているのではないか、という話題になっている。
新しいものはもう出せないんじゃないか、という意識が、東や阿部にはある。
サブカルチャーの担い手が「老い」ることに関して、問題はもう一つある、と思う。
それはあまりにも膨大な蓄積が出来てしまったことだ。
差異ゲームをしようと思っても、自分たちが見つけられるような差異は既に過去の蓄積の中に登録されてしまっている、という問題。


あまりに巨大な歴史の前で身動きがとれなくなってしまう、手詰まり状態にあるのではないか、というのが現代の文化(こうなってくると「若者」には限定されなくなってくる)の問題だと思う。
しかし一方で、全く逆の問題もあるのではないか。
つまり、歴史が全くなくなってしまう、という問題である。
現代アートの世界では、実験的なものが出尽くした後、80〜90年代にむしろ素朴なペインティングへと回帰していく動きが見られるらしい。
あるいは、『サブカルチャー神話解体』を読めば分かるが、どのようなサブカルチャーもみなベタ化を免れていない。どれだけ新奇なものも、いずれは「ベタ」になってしまう。
そうなってくると「そんなのもうやり尽くされてるよ!」といくら言われたところで、陳腐なものが繰り返しやってきてしまうだろう。
それはもはや、差異ゲームでも何でもない気がする。

カルチュラル・スタディーズ

上で述べたとおり、今日は集中授業を受けてきた。
M先生というアメリカ文学をやっている人の授業なのだが、多分カルチュラル・スタディーズというのはこういうような感じなのではないだろうか、と思う。
M先生は、元々フィッツジェラルドとかからアメリカ文学の研究を始めた人なのだけど、授業の内容は文学というよりも文化論である。
テクストの中身よりは、テクスト外の現実の方を重視しているような感じがある。
そのテクストが書かれていた時代の、政治状況、社会状況、文化状況について調べている。
この先生の集中授業は去年も受けていて*3、その名も大衆文化論というもので、大戦間期アメリカの映画とかジャズとかについての授業だった。
このM先生が、実際にカルチュラル・スタディーズと呼ばれる研究手法や研究者たちと同一のことをやっているのかどうかはよく分からないのだけど、何となくカルチュラル・スタディーズってこんななのかなあと思って聞いている。
しかし、これは何というか、しんどいというか先行き不透明な感じの学問だなあと感じた。
というのも、明確な因果関係をほとんどといっていいほど記述できないからだ*4
おそらく、他のもっと、理論とかがきっちりした学問をやっている人から見たら、学問なのか何なのかさっぱり分からない気がする。
政治や経済、社会と文化との間の影響関係については言えるのだが、それをどちらかに還元したり、因果について言ったりすることはほとんど出来ない。実証しようがないから。
作者の意図、というのは、テクストからは探りようがないので、作者の意図を探すのはやめましょう、というテクスト論の後に出てきているものだから、この点は仕方がないし、むしろこの種の学問としてはその線は守らなければいけない。
とはいうものの、これは逆に言うと、何でもありになりかねない。
言ったもんがちで何でもかんでもつないでしまうことも、おそらく可能だ。
もちろんそれをやってしまうと、説得力の点で劣るので「学会の中で」はねることはできるだろうが、「学会の外から」見たら、見分けがつかないのではないか、とも思う。
反例が出てきても、取り込むことが可能だし、そもそも反例って何か、ということからしてよく分からない。
だから、M先生は慎重に論を進めている、と思う。というか、慎重にならざるをえないのだろう。
ただ、その慎重さゆえに、逆に何か説明になったのかどうか分からない部分もないわけではない。*5
さて、上の方で、若者文化を大人が「作って」いるからといって、別に若者は大人に搾取されているわけではない、ということを述べた。
これは何というか、実はM先生的な言い方なのだ。
ただし、本来は即座にこう付け加えなければならない。経済的な面では搾取かもしれないけど、と。
何に慎重にならなければいけないか、というと、ある概念を一体どこのレイヤーにまで適用させるか、というkとだ。
例えば「搾取」であるならば*6、経済的社会的なレイヤーでは「搾取」かもしれないが、文化的レイヤーでは「搾取」ではないかもしれない、といえる。
おそらく、M先生はデコンストラクショニストで、最初に二項対立(例えば、白人VS黒人)を提示しておいて、しかしそれが文化という面においては崩れる(例えば、黒人音楽(ジャズ)を積極的に受容する白人)ということを展開していくパターンが多い。
だから、政治的にはこういうことがあって社会的にはこういうことがある中で、こういう文化が生まれた、ということを言うときに、分かりやすい概念でその全部を串刺しにはしない。
しかしこれは、甚だ困難な道のようにも思える。
というよりも、絶対に結論は出てこなくて、ひたすら延々といくらでも議論だけを繰り返し続けることができてしまうように思える。
例えば、「搾取」であれば、黒人は政治的に搾取されていて、経済的に搾取されていて、だから文化の面でも搾取されてる、ということを言えば、じゃあ黒人を助けましょう、という運動を展開することができる。「文化の面でも搾取されている」ということで文学は、その運動を援助できる。
だけど、それを言ってしまうのは、学問としてはやはり間違っていて、それは実証できないのをいいことに本当はその概念を適用しちゃいけないレイヤーにまで、比喩的にその概念を適用してしまっているにすぎない。
だから、慎重にならなければいけない。
ところがそうすると、文学が言うことが出来るのは、「黒人は政治経済の面では搾取されているかもしれないんだけど、文化の面では決してそんなこともないんじゃないのかなあ」という程度である。
ここで、「文化の面では黒人の方が優れいている!」とも言うことが出来ないのが、また甚だ心許ないところで、いつまでも「こういうところもあるけど、こういうところもあって、そんなに単純な話じゃないんだよね」って言い続けるだけだ。
そして、どんなに慎重になったところで、実証性はほとんど期待できないので、結局「比喩」にすぎないのかもしれない、という疑いはいつまでも残る。


うわ、なんて実りのない学問なんだ……!
でもだからといって、なくなってしまっていい学問とも思わないんだけど、どうやって擁護すればいいのか。
それから思ったのは、何となくこれは「批評」という行為にも似ているような気がした。
といったら、多分「カルチュラル・スタディーズ」やっている人からも「批評」やっている人からも嫌がられるような気がするけれど。
実証しようがないから思いつきだけで何でも出来てしまうようで、かといってそれをやってしまうと全部無意味になってしまうので慎重にならざるを得なくて、ただいくら慎重になったところで実証しようがないので「だから何?」という反論を止めることが出来ない点で似ている気がする。

追記(070702)

サブカルチャーの担い手が老いて、歴史の蓄積の前に差異ゲームが行き詰まりをみせるってのは、多分こういうことです。

世界統一ランキングが簡単に見えるようになって、井の中の蛙にならなくて済むようになったが、同時に井の中の蛙でないと、努力するモチベーションも生まれにくいという話です。

http://artifact-jp.com/mt/archives/200507/networkworldranking.html

自分が「これは新しい」と思ってやろうとしたことが、既に誰かがやってしまっている。
これでは、新しいことをやる気がしません。
だから、『湾岸』的な「チューニング」の世界に入っていくしかないんじゃないの、というのが、上述した東、阿部の考えですが。

*1:例えば、自動車であれば暴走族、あるいはドライブインによって家族に邪魔されない空間が生まれたり

*2:僕個人はそのように読めた、という感覚の話なので、いや、肯定的に評価したつもりなんだと言うのならそれはそれで構わないのですが

*3:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060924/1159108045

*4:まあそんなこと言うと、文学ひいては多くの人文系の学問がそうかもしれないんだけど

*5:学生から出ている質問を聞いていると特に思う。「それを使えばこれもあれもそれも繋がるんじゃないですか」って嬉しそうな人と、「で、結局こういうことなんですか」って一つの結論に還元したがる人が結構いる。まあ、頭悪いなーって思う質問がないわけではないが、別にこれは学生が悪いわけではないと思う。でも、この手の人はこの手の学問に進まない方がいいんじゃないかとも思う。進まないと思うけど

*6:別に「搾取」でなくてもよい。例えばこの授業だったら、「優生学的なもの」とか「テクノロジーへの羨望」とかでもいい