『ラオコオン』レッシング

レッシングであってレッシグではない(^^;*1

サブタイトルは、「絵画と文学との限界について」。その名の通り、絵画と文学とを比較しているのだが、ここでいう絵画は造形芸術全般を指し、特に具体的に取り上げているのは主に彫刻である。文学の方はもちろん文学を指しているのだけど、特にホメロスである。
タイトルともなっているラオコオンとは、トロイア戦争に出てくる神官で、神の使わした大蛇に親子諸共絞め殺される。ホメロスの詩にも登場するし、また彫刻にもなっている。基本的にはこの作品が比較されていく。


さて、では絵画と文学は一体どのように違うのだろうか。
絵画は、物体を描くもので、個々の要素を並存させて表現する。
文学は、行為を描くもので、個々の要素の継起を表現する。
また、前者は視覚に訴える芸術で、後者は聴覚に訴える芸術でもある。
このことが、具体的な作品を分析することで導かれ、またこのことから絵画と文学、という異なるスタイルの作品の比較を行っていく。
ラオコオンであれば、同じシーンから彫刻と文学という異なる表現が生まれているわけだが、当然それらには相違があるのである。これをレッシング以前の論者は、どちらかがどちらかを模倣し、しかし模倣した方が劣っているために相違ができてしまった、と論ずるのに対し、レッシングは先に挙げた絵画と文学のそもそもの相違に訴えて、どちらかが劣っているせいで相違が生まれるのではないと論ずる*2
例えば、絵画はある瞬間を切り取らなければならない。だから、もっとも効果的な瞬間を選ばなければいけない。そのため、文学では描かれていても絵画では描かれていない部分がどうしてもある。ホメロスに出てくるラオコオンは叫んでいるが、彫刻のラオコオンは叫んでいない。叫びはまさにそのシーンのピークであるので、そこを描いてしまうと見る側に想像する余地が残らない。しかし、叫ぶ一歩手前を描くことで、まさにこれから叫ぶところを見る者に想像させるのである。また、叫ぶ顔というのは美しくない、しかし今まさに叫ばんとする表情にこそ美が宿っているので、その瞬間が選ばれた、ともしている。
また、逆に文学は、物体を描くことはできない、という。何か美しいものを描写する時に、事細かに一つ一つの要素を説明してもよくない。何故なら、絵画であればそれら個々の要素を一望することができるが、文学ではそれができないからである。
その代わり、文学は行為や時間的な変化を描くことができる。普段は物静かな人間が、突然感情を爆発させる、というところを描くことができる。絵画の場合、それを描こうとしても感情を爆発させているところしか描けないから、「物静かであるにもかかわらず」という部分が伝わらないのである。

この本は、内容自体も面白い。文学は行為を描くものだから、物体をいちいち描写してはいけない、などといった技術的な話として読んでも面白いし、文芸批評、芸術批評として読んでも面白いし、その分析を味わうのもよい。
また、18世紀の著作ということで多少身構えていたのだが、とても読みやすかった。元となっている作品を知らないための物足りなさはあるが、分かりにくいということはない。
しかし、この本は18世紀のドイツを感じさせるという点でも面白い。
レッシングは、芸術作品において「美」を至上の価値としている*3
そして、どうも「美」をもっとも体現している芸術として、古代ギリシアの作品を念頭に置いているようだ。逆に、近代の詩人のことはそれほど高くは評価していないようだ。ヨーロッパ人ひいてはドイツ人が、古代ギリシアをほとんど崇拝していたのは有名だろう。
さらにいえば、イギリス人やフランス人に対する批判めいた記述もいくつかある。
まあそんなことは、与太話の類かもしれないけれど、読んでいて何となく面白かった。


ラオコオン―絵画と文学との限界について (岩波文庫)

ラオコオン―絵画と文学との限界について (岩波文庫)

*1:これを読んでいたとき、友達から「その人知っている」と言われたが、レッシグと勘違いしていた。紛らわしい名前だとは思う

*2:レッシングとしては、絵画よりも文学の方がより高く評価しているようだが、かといって表現の相違を優劣としては捉えていない

*3:これはまさに18世紀のドイツにおいて生まれた「美学」の考え方だ