『Self-ReferenceENGINE』円城塔

こいつはすごい。
九十九十九』をあっさりと越えてみせた。


このような推薦文が帯に書いてある。

円城塔は本書でもって、かのオイラーの等式を文芸で表現してやろうと企図したのではなかろうかと想像する。出自の異なる互いに無関係な二つの無理数(永遠に続く感触のある物語群)を虚数空間(小説空間)に放り込み、ある操作をしてそこに1を足すと(メタレベルでもって全体を構成すると)、0になる(虚無が、人生には深遠な意味などない、が導かれる)。
神林長平

無数のソラリスの海が語る、愚にもつかないバカ話。
飛浩隆

読んでいない人にとっては、おそらく、何のことを言っているのかさっぱり分からないだろうが、読み終わってみるとまさにこのふたりの言っている通りの作品なのである。
すさまじい。
この作品が、所謂「文学」でもミステリでもなく、SFのレーベルから出版されたことを、SFというジャンルは誇ってよいと思う。
この作品は、決してSFではない。それは、舞城王太郎佐藤友哉が決してミステリではないのと同様に。しかし、彼らがミステリのレーベル以外からはおそらく出てくることが出来なかったのと同様に、この作品はSFのレーベル以外からは出ることが出来なかっただろう。
この作品は『九十九十九』を越えたと上述したが、この前読んだ論文になぞらえていうのであれば、『九十九十九』とこの作品は、世界の複数性と恣意性という点においてその認識を一にするが、世界の不確定性という点において決定的に異なっているのである。
この作品を前にすると、『九十九十九』ですらも、非常に単線的な構造の作品に思えてくる。
それはやはり『九十九十九』の出自がミステリであるからではないか、と思う。ミステリは、オブジェクトレベルとメタレベルの区別をまず前提としている。『九十九十九』には、やはりメタレベルへの遡行が見られる。
一方、この作品は、メタレベルへと遡行しようとする試みを次々と封じてしまう。メタフィクションになることを徹底的に拒否するのである。
この作品にもまた、メタレベルは確かに存在する。それは作中に度々登場する「わたし」であり、最終章でその正体が明らかになるSelf-ReferenceENGINEであるが、同時にそれは「機械仕掛けの無ネモエクスマキナ」という存在しないもである。
その名の通り、「自己言及的」だり、かつ「否定神学的」でもある身振りだが、しかし、あるいはそれ故に、それは自己生成的である。そこにメタレベルとオブジェクトレベルの差異はない。
円環的に、永遠に、相互的に、自己生成し続けているのである。
それはこの作品の複雑な構成にも見て取れる。
第一部と第二部に分かれており、読者はそれらが対称的な構造を取っていることを期待する。事実、一部は確かに対称的であるが、しかしその対称は完全ではない。
その代わりなのか、「鯰」や「トメさん」といったものが、世界を越えて転送されている。あるいは、暗号や怪盗のようなモチーフもそうかもしれない。
断章群が、対称構造も階層構造もとらず、緩やかに連関し合っているのである。
それ故に読み進めている途中、これは一体何なんだ、とイライラしてくる向きもあるかもしれない。
だが、最後の四章、Disappear、Echo、Return、Self-ReferenceENGINEで畳みかけられれば、圧倒されるのではないだろうか。
また、無限もしくは無限のようなものを描こうともしている。もちろんそれはボルヘスだからでもある。つまり神林のいう「虚数空間(小説空間)」とは、バベルの図書館なのである。
とはいえ、これらの断章は、飛の指摘するとおり全く持って「愚にもつかないバカ話」でもあるから、たちが悪いのだ。
SFの設定的には無茶苦茶だ。巨大知性体の展開するあれやこれやには、笑えばいいのか呆れればいいのか分からなくなってしまいそうになる。しかも、それだけでもなかなか面白かったりするのだから、もうどうすればいいのか分からない。
軽妙な筆致でもって、笑わせたりおちょくったりしながら、僕たちを限界まで連れていってくれる。
まるでハーメルンの笛吹きのような、でもその笛の音は僕には福音のように聞こえてしまった。


本書の感想を書いている他のはてダをいくつか紹介。

ユーモラスな語り口も素晴らしいが、折々に挟まる、晴朗な感傷の絶妙さも読みどころ。読者は、ゲラゲラ笑っていたら、いつの間にかしんみりしていたり、心温まったりしていることだろう。この作品は、極端にペダンティック、極度に緻密である一方、非常に健康的でもあるのだ。
(中略)
円城塔は自分が何を書いているか完璧にわかっている(これ重要)。そのような小説を、読者の力の及ぶ限り読解することは、読書の愉悦の一つでもあるはずだ。
(不壊の槍は折られましたが、何か?)

http://d.hatena.ne.jp/Wanderer/20070602

20の断片からなる奇想小説として読み進む。
この軽さは只事ではない。カルヴィーノ的な軽さを追及した小説は、重さの存在を意識的に避けることによる軽さなのだが、本作は徹底的に軽い。文字列の連想と論理の自律により自動的に紡ぎ出された文字列のように感じられる。
(中略)
で、最終章でいきなり全体像が見えると、遡って一気にこの小説の全体像が(おぼろげながら)見渡せるようになる。すると、単なる奇想集だったものが、いきなり意味を持ち始める。こりゃすごいや。
(あやうく半茶になるところだった)

http://d.hatena.ne.jp/hancha/20070603

基本的にFarsideでは時間が逆向きに配列されている。ところどころ逆巻いたり渦巻いたり淀んだりしているが、全体として見ればエピローグから「Contact」へと向かうラインがある。
で、「Contact」と「Daemon」の間で、Nearside側から延びてきたラインとぶつかる。
「Nearside」と「Farside」はそれぞれおおむね逆向きに話が進むので、各話の内容は表裏一体になっている。ただし、最初の方は呼応関係が分かりやすいが、終盤に近づくにつれて(=ContactとDaemonに近づくにつれて)両ラインが近づきすぎてよくわからなくなっていく。
「Sacre」の語り手である「私」は「エコー」だろう。これはいくつかの記述が裏づけとなる(そう読むこともできる、というレベルで)。
(中略)
神父CのCってのはアレか、連続無限のことか?
(送信完了。)

http://d.hatena.ne.jp/ishigame/20070605

装丁までが文句なしにかっこいい

Self‐Reference ENGINE (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

Self‐Reference ENGINE (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)


追記(070617)
トラックバックしてもらったのでちょっと言及、というか
万来堂さんが、とても便利なものを作っていたのでリンクさせてもらう。
Self-Reference ENGINEの感想を集めてみたよ。
ざっと眺めた感じで、感想の最大公約数を抜き出すと
「うまく説明することはできないが、間違いなく傑作あるいは問題作だから、気になる人は騙されたと思って読め」
という感じかな。
あと、当然と言えば当然だけど、SF者からの感想が多くて、「SFネタが多くてニヤリ」というものも結構あった。SF者ではない自分としてはそういう元ネタが分からないので悔しい限り。