『分析哲学入門』竹尾治一郎

横組みの本は専門書っぽくてかっこいいなあ、と横組みの本を読むたびに言ってる。
全部で四部構成、伝統の形成、知識と自然、言語と意味、心の哲学となっている。
この英米分析哲学と呼ばれる分野の入門書としては、今までいくつか読んできたわけだが、この本ではそこでなされていた議論が一体いつ頃誰がしていたのか、ということが分かった。
一方で、今まで読んできた本の中でもっとも難しかった。今まで読んできた本の中でなされた議論、例えば認識論などの話は、「これはあの本に書いてあったことだな」と思うことで理解できたけれど、そうでない箇所、例えば伝統の形成などはあんまりよく分からなかった。入門と銘打ってあるからにはそこまでマニアックな話題ではないのだろうけど、随分とテクニカルな話をされているように感じた。単に論理学の用語に慣れていないだけかもしれないが。


さて、そもそも分析哲学とは何なのか。
ダミットによるとそれは「言語の思考への優先」という特徴を持っている。これを「言語への転回linguistic turn」と呼ぶ。何かについて考察するときに、それについて書いてある文を分析することをもって、その考察に代える、とでも言えばいいのかもしれない。例えば、AさんがBということを信じているとはどういうことかを考えるときには、「AはBという信念を持つ」という文を分析することでそれを行うのである。
といっても、これは必ずしも全ての分析哲学(と一般に呼ばれる哲学)で行われているわけではないので、完全な定義ではない。ただ、分析哲学とは何かを知るとっかかりの一つにはなるかもしれない。
分析哲学言語哲学と呼ばれたりするのは以上のような理由によるところがあるのだと思う*1

伝統の形成

分析哲学は、フレーゲラッセル、ムーア、カルナップによって始まるとされる。
フレーゲは1848年生まれで、1884年に『算術の基礎づけ』、1893年と1905年に『算術の基本法則』、これらの間に有名な「意義と指示」を発表している。彼が目指したのは、論理学による数学の基礎づけである。彼のこの試みは最終的には失敗することになるし、今ではこの試みを継ぐ者もいない。また当時も決して注目を浴びていなかったようだ。だが論理学を整えた彼の仕事は未だに重要だろう。
フレーゲは、意味の概念を意義(sinn)、潤色、力に区別する。この中で力という概念は、後に日常言語分析の中で復活してくる。意義は、指示の与えられ方だとされるが、曖昧な概念でもある。ラッセルはこれを批判し、意義という概念を認めない。
1872年生まれのラッセルもやはり、フレーゲと同様に数学の哲学をやっている。カントール、ペアノといった数学者からその仕事を引き継いでいる。この際、フレーゲの論文を知り1900年の『数学の原理』においてフレーゲを紹介する。
20世紀初頭、カントールパラドックス、ブラリ=フォルティのパラドックス、そしてラッセルのパラドックスという3つのパラドックスが発見され、この数学の哲学はそれまでの順調な発展を止めることになる。
1905年「指示について」からラッセルは確定記述の議論を始め、フレーゲとは異なる解釈を行うようになる。
ウィトゲンシュタインは1889年に生まれ、1909年渡英、1912年にケンブリッジに来る。ラッセルとウィトゲンシュタインはお互いに影響し合う。『論考』は『プリンキピア』の扱っている世界についての哲学だし、『プリンキピア』の第二版はウィトゲンシュタインからの影響で変更が加えられた。
一方、ウィーンにおいてはもともとブレンターノやマッハがいて、実証主義の中心であり、哲学者や物理学者が集まっていた。1922年、マッハの後継として招かれたシュリックを中心としてウィーン学団が成立する。続いて、カルナップの『世界の論理的構築』によってウィーン学団の方向性が定まっていく。
当初彼らは現象学的基礎付けを行っていたが、ノイラートの物理主義などが現れ、プロトコル文への還元が目指される。
さて、ムーアだが1873年生まれで1892年からケンブリッジで学び始め、ラッセルと出会い、当初はヘーゲリアンであったが、すぐにヘーゲルを批判し始める。反形而上学的でラジカルな実在論を展開していく。しかし、1904年にケンブリッジを離れてからは初期の自分の哲学からは撤退していくこととなる。
ウィーン学団ケンブリッジウィトゲンシュタインの影響は、オックスフォードへと集中することになり、ライルやエイヤーが現れる。しかし彼らはどちらかというとウィトゲンシュタイン寄りで、これがオースティンとストローソンによる日常言語哲学へと移り変わっていく。
ウィーン学団のメンバーはアメリカへと渡り、分析哲学はその拠点をアメリカへと移していくこととなる。

知識と自然

「知っている」とはどういうことか。
「SはPについて知っている」とは一般に、「SはPを信じている、かつPは真である、かつPというSの信念は正当化されている」と定義されている。ここで問題になるのは「正当化」とは何か、ということである。
1963年、ゲティアが発表した論文において、正当化されているにも関わらず知っているとは言えない状況が示され、正当化と知識の議論は一気に活発化する。
正当化には、内在主義と外在主義がある。内在主義はさらに、基礎づけ主義と整合主義があるがどちらもあまりうまくいかない。外在主義の代表が信頼主義である。この信頼主義は、ラムジー(1929)、ゴールドマン(1938年生まれ)、ノージック(1938年生まれ)によって提唱されている。
一方で、何かを理解するためには「(意識に)与えられたもの」が必要で、それはつまり感覚経験でありそれは確実であり、信念の基礎たりうるという古典的認識論がある。20世紀においてこれを主張するのは、ハーバードのルイス、ファース、オックスフォードのエイヤーなどである。ルイスの議論はセラーズによって反論されている。
帰納法をいかに正当化するか、といういわゆる「ヒュームの問題」というのがある。
ラッセルは、帰納法アプリオリに正しいと考えた。
ライヘンバッハ(1891-1953)は、ブラグマティックな正当化を唱える。これは、帰納法を最善な賭と考える。帰納法に従っていれば、得ようと思う真理が得られるだろうということだが、これは懐疑論への答えとはなりえていない。
ストローソンは、そもそも帰納法演繹法と同じ基準で正当化しようとするから無理が生じるのであって、帰納法演繹法とは異なる基準で正当化されるのだ、と考えた。
ポパーは、反証主義によって帰納法を救おうとするが、これもまた懐疑論への答えとはなりえない。
現在は、ベイズ主義による考え方がもっとも広く採用されている。これは、信念の度合=確率として考えようとするやり方だ。
帰納法の次に問題になるのが、存在だ。つまり、原子や分子など目に見えないものを存在として認めるかどうかである。
まず一つには、原子や分子を有用なフィクションと考える道具主義(20世紀初頭の実証主義者)がある。またフラッセンの構成的経験論(1980年)は道具主義ではないが、不可知論的態度をとる。
ライヘンバッハやサモンは、観察結果からその存在を推論しうると考える。
1950年代、ハンソンなどによって、観察の理論負荷性が考えられるようになり、そもそも観察できるから存在しているのかということが疑われるようになる。ここに、クーンやファイヤアーベントの相対主義が登場する。さらには、クワイン全体論もまた登場することになる。

言語と意味

クワインは、カルナップの弟子でありカルナップの批判者であり、分析哲学者の中でも最大級の哲学を打ち立てた1人だ。彼は言語哲学に対して、自然主義、行動主義的アプローチをとる。
例えば、刺激と文を与えて、文に同意するかしないかという態度によって、意味を決めていく。
またこの行動主義からは、翻訳の不確定性、存在論(タームの指示)の相対性などが導かれる。
クワインに影響を受けてデヴィッドソンが主要な論文を書くのは、1960年代後半から70年代前半である。
彼はタルスキを取り入れながら「意味の理論」を作る。そこからは「一致を最大にするように解釈せよ」という「寛大の法則」が出てくる。
一方、オックスフォードのグライスは、文をメッセージの伝達だと捉える。デヴィッドソンのアプローチとグライスのアプローチは、対照的かつ相補的である。このメッセージの伝達、コミュニケーションの道具として文を考えるのは日常言語哲学の特徴であり、またここにフレーゲの力概念と近いものが見られる。
数学にはプラトニズムと呼ばれる立場があり、カントールなどが代表であるが、それに対してブラウアー(1881-1966)が直観主義を提唱する。前者は、数学的対象が実在すると考え、後者はそれが構成されると考える。この直観主義を引き継いだのがダミット(1925年生まれ)で彼は真理条件と検証条件を「調和」させ、さらに形而上学的な実在論反実在論の対立も「調和」させようとする。
一方で、実在論を復活させたのが、パトナムとクリプキであった。パトナムは「「意味」の意味」(1975)、クリプキは「名指しと必然性」(1972)によって、それぞれ独立に実在論を復活させたが、この本ではパトナムのみが扱われる。
タームの意味はどのように決まるのか。パトナムは、それは心的状態によっては決まらず、「言語的分業」
コミュニケーションの連鎖が重要であると考える。またそれだけではなく、自然的、社会的状況の影響も無視することは出来ないと考えて、「双子地球」の思考実験を行う。
だがその後、「桶の中の脳」の思考実験を通して、伝統的な実在論ではタームと対象との関係を説明できないことに気付き、内在的実在論を展開することになる。

心の哲学

心身問題は、デカルト以来哲学の重要な問題の一つだが、「心の哲学」においては唯物論的な解決が計られることが多い。
まずは、1920年代のワトソン、そしてスキナーが展開する行動主義である。行動主義は心的要素を排除する。
1950年代、プレイスとスマートというオーストラリアの哲学者が「同一説」を提唱する。これは、心的状態と神経学的状態を同一だと考えることで、心的状態の定義を守りながらも物理的に説明することを可能にする。
トークン同一とタイプ同一があり、前者は個別的な心的状態を神経学的状態と一致させるのに対して、後者は普遍的性質を一致させる。後者は、心的状態が完全にハードウェアに依存することになり、機械や異星人など人間とは異なるハードウェアで心的状態が生まれることを排除してしまう。
続いて現れるのが機能主義で、行動主義と同一説のいいとこどりである。心的状態の役割(機能)を物理的な状態へと還元するのである。
機能主義の一種として機械機能主義がある。これはチューリングマシンによる説明だ。1967年パトナムの論文で頂点を極めるが、70年代以後経験的証拠の積み重ねによって不利になっていく。
一方でデヴィッドソンが非法則的一元論を提唱する。心的な出来事は物理的な出来事である、と考える点で一元論だが、心的な出来事と物理的な出来事との相関関係を結びつける厳密な法則はないとするのである。心的な出来事は物理的に成立しているが、物理的な法則には還元できないと考えるのである。どれだけ脳神経について解明できても、心的なもの(信念など)の解明にはつながらないとする。ハードがなければソフトは動かないが、かといってハードの仕組みが分かったからといってソフトの仕組みまで分かるわけではない、ということなのではないかと思う。
だが、デヴィッドソンが非法則的一元論を導くための証明には難点が指摘されている。
ごく普通に日常的に行う、他人の行動の説明や予測に関する「理論」を通俗心理学と呼ぶ。そうした通俗真理学の「理論」とその存在論を否定するのが消去主義で、ファイヤアーベントが1963年にこの立場の論文を書き、70年代以降ではチャーチランドが一貫してこの立場をとる。
さて、こうした唯物論に対して、心的なものがあると主張する立場もある。その際に出されるのが「志向性」だ。これはブレンターノによって使われ始めたが、フッサールから現象学へと使われていく。分析哲学で使われるようになったのは、1960〜70年代である。
サールは志向性を、その人の心の中にある観念などであると考えるが、それでは自然物にあるような情報の蓄積としての志向性を説明できない。デネットはそのような情報の概念と結びつけて考えようとする。
デネットは志向的システムというものを考える。これは非還元論的な説明であるが、一方で行動主義的でもある。
さて、上述の唯物論的なアプローチには大きな反論があげられている。つまり、「意識とは何故あるのか」ということだ。意識とは、内部からの観察によって明らかになるが、それでは他人の心の存在が証明できない。外部の観察によって意識は証明できるだろうか。また、無意識における情報処理によって様々な行動などが説明できるのだとすれば、何故意識は生まれたのだろうか。

参照

知識の正当化やパトナムの二つの真理実験に関しては、『知識の哲学』http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060928/1159453506
帰納法の問題については『疑似科学と科学の哲学』http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20061225/1167036768
ディビッドソンの「寛大の法則」とかは『哲学の最前線』http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060531/1149082803
論理学に関しては『論理学をつくる』http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060327/1143429817
カントールだとかラッセルのパラドックスだとかは『無限論の教室』
心の哲学に関しては
心の哲学の説明を試しに書いてみました(蒼龍のタワゴト)
■心の哲学・心の科学への十五分ツアー(人文会)
心の哲学について(京都コンピュータ学院卒業生編集誌アキューム)



分析哲学入門 (SEKAISHISO SEMINAR)

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*1:言語哲学分析哲学の一分野なのか、それとも言語哲学分析哲学へと名前を変えたのか、そもそも別物なのか、あるいは同じことの別名なのか、僕にはよく分かりません