スティーブン・ピンカー『言語を生み出す本能』

ピンカーは40歳を前にして天才と謳われた認知心理学者。その彼が軽妙な語り口で解説する言語の生得説。
上巻は主にチョムスキーの普遍文法、下巻はダーウィンの進化論をベースにして、人間の言語という能力に迫る。
上巻は上巻で面白いのだけど、出てくる例が全部英語なので正直分かりにくい。英語を母語にしている人たちの感覚をあてにしてる話だということもあるという。あるいは、「最近言葉が乱れている」と嘆く知識人を指摘する章などは、誰が誰だか分からないので、面白くはあるのだけれど、ホントの面白さというのは分からない。
とにかく出てくる例の量が多く、その幅も多岐にわたるので、それが分かりやすかったり分かりにくかったりする。
イヌイットの雪の話は嘘だ、とかいうそういう話も多くて、へえそうだったのかと思うことも多いのだけど、時々何となく癪にさわらないわけでもないw*1
何だか、とりあえず文句を言ってみたが、基本的なアイデアに関しては非常に納得。
人間にとって普遍的なことは生得的である、ということは全くもってその通りだなあなどと思う。これだけ多様でありながら、一方でこれだけ普遍的なところもあるというのは、逆にその普遍的なところから外れるものを最早狂気としてしか捉えられないウィトゲンシュタイン的な感覚とつながっているような気がする。
20世紀後半の人文系は、多様性と文化相対主義をそのスローガンのように使っていたところがあるけれど、一方で人類というのはそれを可能とする普遍性もまた共有している。
要するに、生物の一種として人類を見る立場に立つと、人類は他の生き物とは異なる非常にユニークな存在である一方で、人類の内部での差異というのはそれほど際立っていないということだ*2
この本の内容は同時に、言語哲学や文化論の自然化を促そうともしているように思う。
下巻で、人間の行動と脳の機能と遺伝子との関係について説明し、またそのようなシステムが発生することに関してダーウィンの進化論を使うことの妥当性を説明する部分は――全くその通りだと思いながらも、これだけちゃんとまとめてくれたのを読むのも初めてだとも思った――どうしても人文系にとっては不得手な分野をフォローしてくれるように思う*3
あるいは、最後の章で出てくる心的モジュールの話*4は、知識の哲学の今までの議論を全て覆しかねない。
自然化、というのは、自然科学に取り込まれることを意味しない。むしろ、今までどうしても埋まることのなかった自然科学と人文・社会科学の間の溝を埋めることである。人文・社会科学にはまだまだ自然科学ではやることのできない分野がたくさんあるが、一方で自然科学に明け渡した方がすっきりする分野もあるし、それによって互いに関連づけられるようになる。


追記。
イヌイットの雪の話は嘘あたりに関係するのだけど、つまり、「言語が思考を規定する」という考えを真っ向から批判する。
「言語は認知能力を制限しない」という、真っ当な主張がなされている。言語モジュールは、例えば視覚モジュールとは独立して機能しているから、当然のこと。言葉では表現することの出来ないような心的概念もある、と説く。
言語はそれだけで働くことのできるシステムであって、単なる表象というわけではないってことなんだと思う。
ところで、サピア・ウォーフはともかくとして、分析哲学では思考を全て言語で表そうとする。だから言語哲学とか「言語の思考への優先」とか言われるわけだけど、これは思考は目に見えて操作したり分析したりできないけど、言語ならそれが可能だからだと思う。要するに、思考なんていう目に見えないものを扱うのは非科学的だ、ということがその根本にあったんだろうけど、30〜50年くらい経ってみると、言語を思考・認知より優先させてしまう考えの方がむしろ非科学的といわれるようになってしまった、ということなんだと思う。
言語哲学の自然化ってこういう感じ。

言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)

言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)

言語を生みだす本能(下) (NHKブックス)

言語を生みだす本能(下) (NHKブックス)

*1:何で人文・社会科学系の奴らはこんなこと信じてたんだ、普通あり得ないだろ、常識的に考えて的なニュアンスを何となく嗅ぎ取ってしまった。しかしこれは自然科学系の人が人文・社会科学系の陥った誤解を指摘するときにありがちなことなのか、アメリカ人にありがちなことなのか、啓蒙書にありがちなことなのか

*2:「生物の一種として」というのが重要。鯨と犬の差異と、犬と犬の差異では前者の方がより際立っているのは当然のこと。どれだけ異なった犬種があるとしても

*3:つまり、人文系がどうしても語ることの出来ない「起源」について

*4:ひいては生得説そのものがそうだが