『フッサール』田島節夫

今まで、3冊連続で白水社文庫クセジュを読んで*1、ここに来て講談社学術文庫に変わったのだけど、圧倒的に後者の方が読みやすい。というのも、文庫クセジュを読んでいる途中に知ったのだが、文庫クセジュはフランスのクセジュ文庫を翻訳出版しているレーベルで、つまり全部フランス語からの翻訳。読みにくいのは、おそらくそのせい。


さて、フッサール
その主著のタイトルは『イデーン』で、死後刊行された全集の名前は「フッサーリアーナ」。だからどうした、といわれるとそれまでだけど、なかなかネーミングセンスがすごいなあと思う。
この本はまず、フッサールから影響を受けた思想家の紹介から始まる。
まずは、ハイデガーサルトルメルロ=ポンティという、多少でも哲学史を知っていれば当然のように出てくる名前が並んだ後、ライル、ヤコブソンが続く。ライルは分析哲学の初期の代表的哲学者だが、フッサールの初期の仕事と分析哲学が繋がっている。まだヤコブソンは、構造主義につらなる言語学者だが、フッサールに深く傾倒していたらしい。
フッサールは、現在のチェコにあたるモラヴィアで生まれ、いわゆる天才では決してなかったものの高い集中力を持っていたらしい。大学では、のちのチェコ・スロバキア大統領となるマサリクと親しくなり、もともと数学や天文学を専攻していたフッサールに哲学を薦めたのがマサリクである。のち、ブレンターノと出会い、フッサールは決定的に哲学への道を歩み出す。
その後、第一次大戦を挟みながら、いくつかの大学で仕事をするわけだが、非常に仕事(哲学的思索)がはかどっていた時期と、全くそうではない時期があって、そういうのが手紙などによって分かっているらしい。こういうのはウィトゲンシュタインもそうだけど、何となく面白い。つまり、彼らみたいな人々にとっては、仕事というのはインスピレーションによるところもあるわけで、そういうものの浮き沈みを追っていくだけでも、かなり大きな研究になりそうだと思う。
彼自身がどれくらい信心深かったのかどうかはよく分からないけれど、ユダヤ人であったために、晩年にはやや暗い影がさす。すなわち、ナチスの台頭である。チェコへの亡命も考えていたようだが体力が許さず、1938年に亡くなる。


この本は、『論理的研究』『イデーン』『第一哲学』『危機』書などを、フッサールの思想の展開と共に紹介していく。その際特徴的なのは、本文からの引用が大半を占めている、ということである(訳は著者(田島節夫)が行っている)。そのため、フッサール思想を知るだけでなく、フッサールの文章の雰囲気も何となく知ることが出来る。
おそらく、これは多分に推測を含むのだけど、フッサールの思想そのものはおそろしく難解というわけでは決してないと思う。ただし、使っている用語の用法が独特でそれを理解するのに時間がかかる。フッサール用語事典みたいなのを作りながら読まないと、すぐに文意が分からなくなっていく。そんな手間のかかることはもちろんしていないので、相当よく分からないまま読んでいた部分もある。


まずは『論理的探求』から始まる。この著作は、非常に分析哲学との関わりが深いだろう。何しろ、フレーゲからの批判を受けて、転回した後の著作だからだ。
ここでは、表現や意味といった論理学、言語哲学的な考察から認識論の考察へと到っている。その中では、フレーゲラッセルとよく似た見解も見られる。
ただし、フッサール分析哲学とは異なるのは、言語そのものや論理そのものだけを扱うというよりも、ある種の存在措定のもとで行われていることだろうか。
フッサールの主張することは、存外常識的な結論に落ち着く。
『論理的探求』から『イデーン』は、人が何かを認識するところを非常に細かく分析していく。かなり徹底して、人間の認識の仕組みを解き明かしていく。志向性に関しては、その分類などもなされていて、もしかするとサールのそれよりよいかもしれない。サールの志向性は、現実との因果関係を当然のように求めるけれど、フッサールの場合そのような主張はない。
アプリオリという概念を二つに分けて考える。アプリオリ=必然的真理とは捉えない。必然的真理はアプリオリだけれども、アプリオリだからといって必然的真理というわけではない。偶然的真理の中にもアプリオリなものはある。それを総合的アプリオリなどと呼ぶ。範疇存在論なんかがおそらく総合的アプリオリ
意識の「内容」と呼ばれているものも、丁寧に分けていく。その中で、対象、作用の形質、作用の質料と分けられる。これらが、のちにノエマとかノエシスとか呼ばれるようになる。また、実際にあるものと想像の中にしかないものの区別についても考察される。
あるいは表象に関する考察の中で、単一光線作用と多光線的作用というのがあるが、これはラッセルが考えていた(はずの)命題と名詞の違いに相当したりするのかな、と思った。
イデーン』において、エポケーとか超越論的還元といった言葉が現れてくる。これは、デカルトの方法的懐疑をさらに発展させたようなものでもある。
これは、『論理的探求』とも連続しており、意味付与作用についてとか、知覚と想起・写像・記号などとの認識の違いなども引き続き考察される。
またここで重視されるのが、顕在的と潜在的という概念で、まさに意識されているものが顕在的であるのに対し、潜在的なものがそれを取り囲んでいるのだが、それも意識すれば顕在的になるのである。潜在的なところを括弧にいれることで、現象学的還元が行われるのだが、それは括弧にいれることで潜在的なものについて考察していくことにもなる。
それと並行しながら、あるいは後期のフッサールは、時間についての考察に没頭していく。
潜在的なものを地平という言い方で呼び変えたりするが、これがいわば原-時間ともいうべきものとなる。
この時間の考察は、発生的なアプローチによって行われている。つまり、実際にどのようにして時間などを把握していくか、ということである。
意識的に、顕在的に把握された知識は、いつしか顕在的になって地平へと去る。しかし、それを再び顕在化することは可能である。だが、それをせずに固定化していってしまったのが、近代科学である。そうした固定化してしまった近代科学への批判が、生活世界論、いわゆる『危機』書である。
この本は最後に、フッサールの相互主観性についての考察を試みる。
フッサールの超越論的還元は、非常に独我論的なスタイルであると思われやすいが、果たして本当にそうなのだろうか、というのが著者の問題提起だ。
フッサールは、ありとあらゆるものをエポケーした後に残る自我の中にも他なるものを見出し、そこから他我を構成しようと試みる。その際に、やはり身体というものが重要な役割を果たしているっぽい。キネステーゼな身体。
著者がこれを支えるために持ち出してくるのが、ヤコブソンの言語学である。単語や表現には、有標のものと無標のものがある。例えば、女性名詞と男性名詞などである。このとき、無標(男性名詞)のものは一般的なもの(男性も女性も含めた人一般)をも指す。つまりもともと無標のものがあって、それに対して有標なものが出来ることで、区別されていったとするものだ。これを自我と他我に当てはまると、自我とは無標のものなのであり、そこから異なるものが区別されることで他我が現れていったとする。


そこそこに長い本を、勢い込んで読んだせいで、うまくまとめることができなかった。
フッサールやこの著者が注意を促す違いというのを、あまりうまく理解できなかった。
丁寧に読めば、かなり発見がありそうだけど、かなり疲れそうだ。
現実(定立)と想像(中立)を同じようなものと捉えるレベルと、異なるものと捉えるレベルがあるみたいで、そこらへんが多分注目すべき点なのだろうけど、不消化。
存在論なども含むので一概にはいかないけれど、やはり認識論として現代の認知科学や心理学、あるいは(自我と他我に関しては)精神分析などと連携していくと面白いだろうなあ、と思う。


参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20061023/1161605081

フッサール (講談社学術文庫)

フッサール (講談社学術文庫)