永井均『これがニーチェだ』

とりあえずこの本で記されているニーチェは、あくまでも永井によるニーチェ解釈であることが何度か指摘されている。別にこれは当たり前のことで、世にある解説本というのは全てそういうものなのである。逆に、例えばこの本であればそこにあるのは、ニーチェ哲学ではなくて永井哲学なのだ、と言ってしまうことができる。
ということは、頭では分かっているけれど、ついつい原書を読まずに入門書ですませてしまう癖が自分にはあるなあ、と思う。哲学を専攻するとか言っておきながら、原書で読んだことのある哲学者なんてほとんどいないってまずいなあ*1
そんな感想はおいておいて中身にうつる。


ニーチェの思想の終着点は「動物」になることだったのではないだろうか。だが、当然のことながらニーチェ自身は「動物」ではなく、徹頭徹尾「人間」である*2。それ故に、ニーチェの思想はポストモダンについての思想とも言い得るかもしれない。
この本の中では、ウィトゲンシュタインが何度となく引き合いに出されているし、またデリダ的なところもあるように思えた。
永井均は、ニーチェを読み解くのに3つの空間を設定する。これらの空間の関係は以下のようなものである。
まず、ある対立軸をもつ空間がある。例えば「真理−誤謬」などだ。そこで例えば徹底して「真理」を追求していくと、実は「真理」とされていたものが「誤謬」であり、「誤謬」とされていたものが「真理」であったことが明らかになる。そしてその時、そもそも「真理−誤謬」なる対立軸が無用なものとなっていく。むしろ何故そのような対立軸が成立していたのか、という問いが現れる。その問いに答えるために、新しい空間が生み出されるのである。
これは、永井いうところの「第一空間(道徳の系譜学)」から「第二空間(力への意志説とパースペクティブ主義)」への運動を簡単に要約したものでもあるが、ある二項対立を内的に破壊してしまうこのようなやり方は、デリダ脱構築のようにも思える。
しかしこのように、そもそもあった対立軸をさらにメタな視点の空間から俯瞰しようと試みると、仮想敵を攻撃するだけでなく自らにもその攻撃の手が降りかかることになる。
パースペクティブ主義とは、メタ視点に立つこと=様々なパースペクティブがあることを「語る」ことである。だが、ウィトゲンシュタイン(あるいはカント)に従えば、それは「語る」ことではなく「示す」ことである。つまり、メタ視点とは「語りえないもの」である。
永井は、道徳の系譜学によってキリスト教的道徳の欺瞞を暴いたニーチェを評価する。その仕事は、パースペクティブ主義を「示す」ものだからだ。しかしそれを「語っ」てしまう、「語れ」ると思ってしまうニーチェに対しては、哲学的感度が低いと言ってのける。
第二空間におけるニーチェの問いはおそらく正当なものだが、それを無邪気に語ってみせることは、ニーチェ自身が否定したはずの「弱さ」をニーチェ自身が孕み持っているという矛盾がある。その矛盾に対して鈍いことを永井は批判するのである。
だがニーチェも第二空間に留まるわけではない。第三空間である永遠回帰の思想へと到る。
「あろうとする」という意志的な生というよりも「ただある」という絶対肯定的な生へと到ろうとする道である。
僕は、この生は「動物的」であると思う。あるいは「環世界的生」と言ってもよいかもしれない*3。であるならば、パースペクティブ主義はさしずめ「可能世界的生」であろう*4ニーチェは決して「動物」ではなかったからこそ、第一空間と第二空間を経由してのみでしか第三空間に到達することができなかったのだ。それは彼が紛れもなく「人間」であることの証しである。


全体の流れから離れて、いくつか面白かったところ。
まずは、第一章にある道徳批判である。これはいわゆる「何故殺してはいけないのか」という問いに対する、永井=ニーチェなりの解答である。
そもそも「殺してはいけない」という道徳そのものが、虚偽である。それ故に正しく生きようと思うのならば、「殺すべき」なのである。
もう一つ面白かったのは、記憶に関することだ。
諸悪の根源、つまり人間を「人間」たらしめているものが、記憶である。さらに、能動的で積極的な記憶は「約束」と呼ばれ、自分自身に対しての約束を「意志」と呼ぶ。つまり「人間」とは「約束」する動物なのである云々。


何故そうであるのか、というのが最も根本的な哲学的問いである。
ニーチェはその問いを最も突き詰めていった哲学者の一人である。
先の問いに対して、ある理念や理想をもって答える場合がある。しかしこうした理念や理想というのは決して実在しない。それは「無」である。「無」をあたかも「有」であるかのように見せかける、真理であると僭称することをニーチェ形而上学と呼んで批判する。面白いのは、理念や理想の提示そのものは、形而上学ではなく「芸術」と呼ばれていることだ。問いに対して虚構でもって答えることが「芸術」なのである。しかしそうした「芸術」の中で、虚構ではなく真理である、と自らを騙るものを形而上学と呼ぶのである。
つまり、問いに対する答え(と称されるもの)は、基本的に虚構であるから、答える者の立場によって様々なものがありうる。それがパースペクティブ主義である。
これはある種の相対主義なのであり、メタ的な視点である。
だが、このパースペクティブ主義そのものが、形而上学である、ということが可能である。
ニーチェの問いが哲学的問いであるのは、そのような言い方が可能だからである。
ニーチェによる形而上学批判はニーチェ自身にも降り注ぐ。
何故そうあるのか、という問いに対して、相対主義的に答えるやり方は、かなりの程度で妥当であると僕は考える。
そしてこれは近代、特に後期近代と呼ばれる時代にとって正当な答えでもある。例えば、民主主義はまさにこの答えによって導き出される。だが、民主主義そのものは民主主義的なのであろうか。近代そのものは近代的なのであろうか。
この問いに対して、直接的に答えることができた者は基本的にはいない。
現在、間接的な答えは二つある。
一つは、ニーチェの「動物的」な答え。
もう一つは、前期ウィトゲンシュタイン的な「沈黙」あるいはローティ的な「プラグマティズム」という答えだ。


これがニーチェだ (講談社現代新書)

これがニーチェだ (講談社現代新書)


追記(070416)
ニーチェの絶対肯定は、全てのものが光を発している、という考え方をする。
どこか一点の光源によって照らしている(まさにパースペクティブ!)のではなくて、各々が光っている、故に絶対肯定、なのだが
これがベルクソンの汎イメージ主義と近いように感じた。
ベルクソンもまた、単一の光源から照らす方法(現象主義)ではなくて、個々が光を発すると考える。単一の主体が、個体からイメージを作るのではなく、個体即イメージ(光)なのである。
ちなみに、僕はこのイメージを情報と置き換えて、環世界論とかアフォーダンスと繋がったりしないかと思ったりもしたりしてますが、それはまた別の話。

*1:読んだ原書ももちろん日本語

*2:これは、援交女子高生に憧れながら、自身はそうではない宮台真司のようにも見える

*3:この生が、仏陀的であるとされている点にも注目すべし

*4:可能世界的な考え方に立つと、実は「ただある」という考え方も可能になるけれど、ここではあえて無視