永井均『マンガは哲学する』

タイトルで想像されるとおり、マンガ作品を使って哲学的問題を考える、といったもの。
講談社SOPHIABOKKSとかいう全く聞いたことのないレーベルからでているのだが、この本以外のラインナップが怪しすぎるw*1


取り上げられているマンガは、藤子F不二雄*2諸星大二郎萩尾望都楳図かずお、吉野朔美、永井豪佐々木敦子高橋葉介しりあがり寿、『伝染るんです』、『カイジ』、『鉄コン筋クリート』、『究極超人あーる』、『寄生獣』などなど、永井均自身の好みが多分に反映されているとはいえ、多岐にわたっていて、紹介されているマンガを眺めているだけで面白い。
前半は、言語哲学分析哲学的な問題設定が主で、紹介されている作品もSFが多く、「マンガで哲学する」と言われたときに、わりと想像しやすいあたり。
例えば、萩尾の「半神」、士郎の「攻殻」、田島の「サイコ」などを取り上げて「私」が「私」であるとはどういうことかについて考えたり、ドラえもん火の鳥*3を取り上げて、時間について考えたりしている。
これでは、哲学的には詰め切れていないだろう、と永井によるツッコミが入ったりしているところは面白い。
後半は、倫理学的な問いが主になってくる。
漂流教室』と『わたしは真吾』を比較して、子どもが大人になるとはどういうことなのかと考えたり、『デビルマン』や『寄生獣』を通して、守るべきものについて考えたりする。
後半で、あるいはこの本全体の中で、一番面白いのは、大人になることと死について考察のパートかもしれない。
鉄コン筋クリート』と『ぼくだけが知っている』を通じて、大人になるということは「闇」を取り込むことである、とされる。前者では「闇」とは悪のことであったが、後者での「闇」は無=死である。そこで死については、永井豪「霧の扉」としりあがり寿の『真夜中の弥次さん喜多さん」が取り上げられている。
もう一カ所面白いパートをあげるとしたら、『自虐の詩』と『髭のOL藪内笹子』を取り上げて、幸福とは何かを考察している部分だろう。ここで永井均は、人生の意味に辿り着いた『自虐の詩』ではなく、おそらく意味など考えもしないだろう藪内笹子の方をより評価するのだけど、そこをもう少し詳しく解説して欲しかった。


作品を選ぶことに関しては、それなりに計画・計算されているのだろうが、書く段になってからは(言い方は悪いが)わりとテキトーに書いたのではないか、と思ってしまう。
取り上げている作品数が多いために、逆にあっさりと通り過ぎてしまう作品もある。もちろんこの本の主は「マンガ」ではなく「哲学」の方にあるので、作品論を展開しなくてもかまわないのだけど、哲学議論をするにしてももう少し進めて欲しいと思うところが少なくなかった。
ただ、哲学議論が主であるとはいっても、個々の作品について永井均が評価しているところも少なくない。この本は、マンガ評論では全くないので評論としてどうのこうの言うのは的はずれかも知れないが、感想レベルの評価が多いのは気になった。
永井は作品を評価するとき、「芸術的」とか「リアリティ」という言葉を使うのだが、それらの言葉が何を指しているのか不明なのである。だから、永井均の感情的好き嫌いは分かるのだが、それ以上のことが分からない。


哲学をやるきっかけとして、あるいはマンガを読むきっかけとして、軽く読むのにはよい気がする。


最後に、話がそれるが一カ所引用。

私は大学の教員をしていて、哲学を学ぶことが哲学的感度を殺してしまう例を、毎年のように見ている。大学一、二年のときには、まだ輝くほどの哲学的感度を持っていた学生が、本格的に哲学の勉強をし、大学院進学を決意しはじめるころには、もうすでに、哲学界で哲学の問題であるとされているものを、ただこねくりまわすだけの人になってしまっているという例を、何度見てきたことだろうか。

これは難しいところだと思う。
もともと哲学的感度に乏しい自分にとっては、勉強をすることでしか哲学には近づけないような気がしている。
一方で、哲学の研究者にしか分からないような問題を考えるのもいかがなものか、とは思うけど。

マンガは哲学する (講談社SOPHIA BOOKS)

マンガは哲学する (講談社SOPHIA BOOKS)

*1:催眠法、ユング、人間関係の心理学、共依存症、内観法、気

*2:ドラえもんも出てくるが、この本で一番最初に出てくる作品は「気楽に殺ろうよ」でその後、何本かFのSF短編が続く

*3:ただし異形編(八百比丘尼の話)