保坂和志『カンバセイション・ピース』

仲俣が『ポスト・ムラカミの日本文学』でポップ文学と呼んでいた人たちを読もうキャンペーン第3弾!*1


こういう長い文が書きたい。
堀江もそうだったけど、一文が長い。
〜をして、〜をして、〜をしたのだが、〜だった。
みたいなこういう文。
こういう長い文がもたらすリズムが好きだ。とりあえず今のところは。
それで、どういう感想を書こうかと思ったのだけど、「同時性」というキーワードを使ってみることにする。
つまり、「〜をして、〜をして、〜だった。」という文は、その文に出てくる「〜」という出来事を全て同時的に表記する。
そしてこの作品は、様々な現象が同時的に起きていることが繰り返し描かれている。
過去の記憶、死んだ人の想い、猫、人間、通りの風景、視覚、聴覚……
空間的にも時間的にも、あるいは概念的にも類別的にも隔たったものごとが、同時に継起していく。
そしてそのことを丁寧に、というよりも、かなりまどろっこしく考えていく。
主人公はひたすら色々なことを考えているのだけど、それも一つのことをしつこく確かに順を追って考えていくのではなくて、色々なことを思いついた順に何となく考えていく。
でもそのおかげで、どこか突飛なところへ飛躍していくことは決してない。
私は、猫の視点で見ていることもあるのだ、とか、神がどうの、とか、抽象とはしかし具体の中にある、とかそういう思索を色々と繰り広げるけれど、それらは浮ついたふわふわした思索ではないことが読めば分かる。ある程度、科学的なものも手がかりにしつつやっている。


さて、同時に継起するためには「家」という箱が用意されているのだ。それに、「私」とか「猫」とか「神」とかが少しずつ連なっていく。
そして、うまく同時にならないものが、この作品の中には3つある。
死んだ猫のチャーちゃんと、綾子と、野球だ。
チャーちゃんは、不在の猫として最初から最後までずっと「私」を取り巻いている。チャーちゃんの死の記憶は、しかし他の死の記憶のようにはうまく「同時」なものとして馴染んでいかない。
あるいは、綾子。ちょうど、作品の真ん中で、「私」が綾子に対して庭で延々話しているところがこの作品のかなり核になっていて、作品自体綾子の鼻歌によって幕を閉じるので、綾子もやはり結構特別な存在としてある。
そして、野球。「同時」というのをとりまとめる役割として「家」という箱が用意されているのに、野球は当然「家」の外で行われているもので、これはやはり「同時」から外れる。


主人公が、45歳くらいで、奥さんがいて、作品の最初の方では主人公より10個くらい上の従兄弟達が沢山やってきたりしていて、登場人物の平均年齢がわりと高い。とはいっても、この従兄弟達は年齢不詳だけど。
あと、綾子と森中が20代で、19歳のゆかりという主人公の姪もいるので、若者ももちろん登場しているけれど。
最初は、どうやって読んでいけばいいのかよく分からず、そういう意味では最後まで何となくぼんやりと読んでいた。

カンバセイション・ピース (新潮文庫)

カンバセイション・ピース (新潮文庫)

追記(070305)
偶然見つけた、保坂和志に関する論文。
「ポップ文学と〈私〉のリアリティ−保坂和志試論」渡邉一弘
京大哲学教室の紀要論文らしい。
カンバセイション・ピース』に対する言及はないが、非常に面白かったので一部抜粋したい。
保坂の他の作品が読みたくなった。

そこ*2において彼*3は「私に固有のものでないものが寄り集まって私になる」と言ったり、「私も私の主体性も私の意志も、すべて現象であり、小説には、本当の意味でそれに先行するもの(原因)はない」と言ったりする。

しかしこうした起点のない想起の連鎖によってこそ触れられるのが「私」のリアリティである、と保坂は言うのだ。
(中略)
「私」にとって決定的なものを、その瞬間において「決定的」と捉えることはできない。それが「私」にとっていかに決定的であったかは、後々振り返ることによって了解される。*4

この論文の筆者である渡邊が、自分の思い出について語る。
それは、小学生の時のある何でもない瞬間のことなのだが、その時この瞬間を大人になってから何度も思い出すだろう、と確信した、という。
そして事実として何度も思い出している。
しかし、この話は渡邊自身言うとおり「うさんくさい」

このような時間軸や物事の因果関係を完全に無視した考え方は、もちろん私自身にとってもすんなり飲み込めるものではない。最初に感じた予感が本当だったとしてもそれはじつは単なる無根拠な偶然の作用で、それが社会学でいう「予言の自己成就ディレンマ」のように働いてしまったのだ、と言えば表面的にはスッキリするが、それは完全に問題のすげ替えで、(中略)そこでは「私」のリアリティとはなにか、リアリティに触れるとはどういうことなのか、という発端の問題がすっぽり抜け落ちてしまっている。


しかしそれでも私の思い出語りはお話として出来すぎで、「そういう思い出って確かに漠然とはあったのかもしれないけど、本当は保坂和志が書いたことを読んでからつじつまが合うように作り上げたんじゃないの?」と反論というかチャチャを入れたがる人がいるかもしれないが、それは反論にもチャチャにもなっていなくて、私が言いたいのも実はそういうことなのだ。


少なくとも上述の「お話」の原型となった何らかの経験が私の人生においてあって、私が「私」のリアリティというものに触れようとするときその原型となった何かを頼りとしていることは信じてもらうしかなくて、まあそこが信じられないとまで言うような人はとっくに読むのを放棄しているとは思うが、上述の思い出がその後の反芻の度に私以外の誰かの考えや視点が混入していることには間違いがない。*5


こういう「うさんくさい」思い出話は、僕自身にもあって、とても納得するものがあった。
そして、過去の記憶と現在の認識が混ざり合っていくという感覚は、確かに『カンバセイション・ピース』の中で描かれていた。
僕はそのことを、上の文章ではとりあえず「同時性」と呼ぶことにしていた。
しかしこの渡邊論文を読んで、これはベルクソンのいう「持続」のようなものなのかもしれないな、とも思った。
あるいは、下條のいう「脳の来歴」でもいいかもしれない。
過去の出来事というものは、客観的に、今とは独立してあるのではなくて、今現在の「私」との相互作用によってあるのであり、また「私」というのも同様のあり方である。
上述の渡邊論文では「私以外の誰かの考えや視点が混入して」とあるが、『カンバセイション・ピース』では、それは「猫」であったり、同じ家の同居人、あるいはかつてその家に住んでいた人々のものであったり、あるいは「神」であったりする。『カンバセイション・ピース』で出てくる「神」は、宗教的なもの、というよりは、絶対的な認識者といったような感じのものである。
あるいは、『カンバセイション・ピース』の主人公が何度か考えを巡らす「抽象」というのも、ここでいわれる「リアリティ」と類似の概念なのかもしれない。


小説の中で、主人公の思索が延々と語られることの意味がいまいちよく分からなかった。
その思索の内容はそれなりに面白いのだけれど。
この渡邊論文を読んで、保坂にとって、小説=思索なのか、ということが何となく分かった。
思索を文章にするのであれば、小説でなくてもいい、という考えもあるのだけど、この主人公の思索は、小説の中で起こっている出来事とも深く絡んでいるから、やはり小説でなければいけないのだろう。

*1:第1弾は、赤坂真理『ヴァイブレータ』、第2弾は、堀江敏幸『いつか王子駅で』

*2:引用者注、『小説の自由』のこと

*3:引用者注、保坂和志のこと

*4:直接関係ないが、これは「恋愛」の問題とも繋がりそうだ

*5:この論文の文体が、なんとなく保坂の文体と似ている