島本理生、鹿島田真希、本谷有希子を連続で読んだ

タイプの違う女性作家3人立て続けに読んだらどうなるかリレー!
鹿島田と本谷は最近名前をよく見かけるのだが、まだ文庫化していないし*1、何の予備知識もなく単行本を突然買うのも躊躇われるし、とりあえず雑誌で読んでみようか、という考えで手に取ったのだけど、3人が三者三様の恋愛を描いていて面白かった。
この世には無数の恋愛(とそれにまつわる小説)があるのだなあ*2


石原千秋『大学受験のための小説講義』によると、小説には、小説的な部分と物語的な部分に分けられる。
物語的な部分は、読者の「このあとどうなるのか?」という興味に支えられている。
一方で、小説的な部分は、読者の「何故こうなるのか?」という興味に支えられている。
前者は時間を進めるが、後者は時間を止める。
以下、小説とか物語とかいった言葉は、概ねこの概念を参考にして使われる。
先に言ってしまうと、鹿島田は実に小説的で、本谷は実に物語的で、島本はその中間であったように思う。石原千秋の言っていることとはあまり関係ないけれど、鹿島田と島本がどうしても小説家的なのに対して、本谷はやはり非小説家的なのだと思う。

島本理生「あなたの呼吸が止まるまで」『新潮』2007年3月号

12歳の女の子、朔が主人公。
父親は売れない舞踏家で、そのために離婚している。
朔は、同級生の女の子鹿山さんに憧れている。鹿山さんは、何かと人と対立しがちでクラスでも浮いてしまうのだが、はっきりと自分の意見を言えるところに朔は魅力を感じている。朔は朔で、おとなしめのキャラとしてクラスの中にいるのだが、鹿山さんの方も朔に魅力を感じている。
同じく同級生の男の子、田島くんは、女の子に優しくてかっこよくて、朔は少しずつ彼のことを好きになっていく。しかし一方で、田島くんは鹿山さんのことが好きらしい。
というように内容を要約すると、小学生の三角関係ものに見えてきてしまったけど、全然そういう話ではない。
朔はよく、父親の公演に連れて行かれ、その後の打ち上げにも付き合わされるが、当然朔にとっては何も面白くない。その時出会ったのが、佐倉であった。朔の母親の友人で、今は朔の父親の公演のポスターを作るようになっていた佐倉は、朔が父親関係で会ってきた大人の中ではとても親しみやすかった(というより、父親の交友関係は舞踏家やその周辺なので、変人が多い)。
朔は佐倉に心を許すようになるが、佐倉は優しいお兄さんなわけではなくて、朔のことを狙っていた。ある時、朔は佐倉に襲われてしまう。
一方、鹿山さんの弱いところも見つけていくし、田島くんへの想いも冷めていく。
朔は佐倉とのことを悩む。自分が子供であることを主張すれば、佐倉のことを追いつめることはできるが、もし自分が大人であったならば自分にも非があったのではないか、と考える。


島本理生の作品は、多分に物語的なところがあって、この作品であれば、田島くんとはどうなるのか、佐倉とはどうなるのか、という部分である。
ただそういう部分をかなりベタに展開させる。
ナラタージュ』なんかと同種のベタがこの作品にもある。
田島くんと子猫を拾って育てるのだがそれは結局うまくいかない、とか、佐倉には下心があって襲われてしまう、とかもうベタ展開なのだけれど。
田島くんに対して好きになっていく過程と、冷めていく過程が、わりと丁寧に描かれていてよかった。
そして最後、朔が佐倉に対してつける決着がよい。
朔は、ひそかにお話を書きためている。いつか童話を書きたい、と思っているのだが、佐倉に電話でこう告げる。いつの日か大人になったら、あなたに関する話を書くのだ、と。名前を変えて、でもあなたを知っている人が読んだらあなただと分かるようにして。
それにある前提があるのが面白い。
今訴えたとしたら、あなたは変態という側にいってしまう。
彼女は、佐倉から受けた被害を、性犯罪としてではなく、恋愛という形で決着を付けようとしているのだ。
子供ではなく、大人として。
その電話をする時、朔は田島くんに公衆電話の側のベンチにいてもらうように頼む。そして、この電話を秘密にしてくれるようにも、頼む。もちろん田島くんは電話の相手も内容も知らない。
この儀式が全て終わった後、朔は河原でゆっくりと自分の体の音を聞く。


全編、朔の一人称で「です、ます」体で進行する。
子供の「です、ます」体は、もちろん「だ、である」体よりマシかもしれないけれど、何となく違和感はある。「です、ます」体を使った時点で、もう大人びた子というイメージがどうしてもついてしまう感じがしてしまう。
でも、読みやすいし、朔も普段から大人とのつきあいがある子供だから、読み進めていくうちに気にならなくなる。
ところが、一カ所だけ回想シーンがあって、そこだけ「です、ます」体ではなくなる。
ここだけ時間軸が違うし、重要な回想シーンではあるけれど、ちょっと浮いていたような気がする。


鹿山さんと田島くんは、最初かなり大人っぽい子として登場してくるのだけど、段々とその子供っぽいところも描かれるようになっていた。
特に田島くんの子供っぽさは、なんだかリアルだった。

鹿島田真希「ピカルディーの三度」『群像』2007年3月号

恋愛に関する観念的な小説。
主人公の「おれ」は、音大を受験するために先生のもとに通っているのだが、その先生のことが好きになる。先生は突然「おれ」に対して、洗面器に糞をしろ、と命じる。
ちなみにこの先生は、作曲家の独身男性である。ただし、この作品では彼らがホモセクシュアルであることは表だって問題になることはない。
「おれ」は友達に時々相談(?)をしているけれど、そこで問題になるのはあくまでも糞の方で、ホモセクシュアルの方は問題になっていない。その友達はヘテロで、惚れっぽくて付き合ったり別れたりを繰り返しているらしいが、その友人のそんな様子を「おれ」は可愛いと思っている。
それはともかく、糞なのである。ウンコという文字が、何度となく出てくるが、これはとても真摯に愛を描こうとしているのだ。
先生は「おれ」ではなく、「おれ」のウンコのことを愛している。「おれ」は「おれ」のウンコに対して嫉妬するが、果たして「おれ」のウンコは「おれ」の一部なのかそれとも「おれ」の外部なのか。
ウンコは、自分の内側にあったものが外側に出てきたものである。つまり、それは無意識の表出なのだ。
「おれ」は先生に、ウンコではなく言葉で想いを伝えようとする。
しかしここで「おれ」は、先生との間にあったように思っていた一体感をなくす。
言葉によって想いを伝えることで、意識化されることで、「おれ」は自我を手に入れ、先生との一体感をなくす。
「おれ」は何度となく繰り返す。
「特別な一人ではなく凡庸な愛になりたい」と。
そして、この小説は最後にこう締めくくられる「二人で一人称を綴ろう」と。
とにかくウンコ、ウンコと連発しているので度肝を抜かれるが、この小説は、愛と言葉と肉体についての観念的なことが書かれている作品であって、ある意味では真面目に書いてしまうとつまらないのでウンコによって読者を惹きつけようとしているともいえる。
だけど、この考察はやはり面白い。
恋愛というのは、どこまでも自分本位でわがままなもので、一体感などなくなっていっても、次々と相手のことを求めてしまう。
その段階を、ウンコ→言葉→身体という形で表し、さらにウンコと身体を繋ぐものとして音楽を位置づけている。
ウンコは、言葉にならず内側から排泄されるもの、無意識。言葉は意識化されたもの、あるいは自我、精神。
一方で身体は、精神と相対立するものでもあるが、一人称を担うものとしても考えられる。ウンコは、内側と外側との境界を壊すものであり、また「おれ」と先生との関係を特別なものとして一体感を覚えさせるものだった。しかし、身体はそうではない。ウンコを求める愛は異常-特別だが、身体を求める愛は凡庸だ。そして、身体は二人の境界でもあり一体感を阻む。
音楽は、言葉にならずに排泄されるという点でウンコと同じだが、一人称を担うものである点で身体と同じだ。
「凡庸な愛」と「一人称」
実に小説的。

本谷有希子「生きてるだけで、愛。」『新潮』2006年6月号

本谷有希子というのは、劇団本谷有希子を主宰する演出家でもあるらしい。
というわけで、なるほど確かに小説というより演劇、映画的かもしれない、とも思った。
鹿島田とは対照的に、実に物語的なのだ。
ここでは、鹿島田{小説的≒観念的}という感じで捉えていて、それを言うと島本も相当物語的なのだけど。
本谷にはカタルシスがある。
島本はカタルシスをおくかわりに、「左手」という「文学的」な記号*3を作品の中におく。それを強調するために、途中で文体を変えたシーンを入れたりしている。


無職、メンヘル、過眠症、25歳、女性。それが主人公新垣のもつ肩書き(?)だ。
新垣は、他人とほとんど関わりを持とうとしない男、奈津木と同棲している、というより完全に養ってもらっている。
奈津木は仕事が忙しくなってきて新垣にほとんど関心をもたなくなってしまったことが、彼女には気にくわない。
そこに、奈津木の元カノが現れる。30代半ばを過ぎた元カノは、恋人と別れたことで焦りだし、奈津木と寄りを戻そうと考えるが、奈津木は性格的に新垣に出て行けということはできないため、新垣を説得もといほとんど脅迫に近い形で追い出そうとする。
新垣は新しいバイト先で、今度こそまともに働けるかもしれない、と思うが、それも一瞬に過ぎなかった。
アパートの屋上、雪の降る夜、新垣は全裸で奈津木に言う。「わたしに対して楽するな」
わたしは、こんなわたしと別れることはできないが、奈津木は別れることができる。でも、屋上で全裸で記憶に残れるようにする。
新垣と奈津木が仲直りして終わり。


何かを読んでスカッとした気持ちになりたいのなら、この3作の中だったらこれが一番面白い。
鬱のせいで、何をやってもうまくいかない人が主人公だから、別にスカッとしないかもしれないけれど、カタルシスはある。
自分は死ぬまでメンヘルで、ずっと人に迷惑かけて生きていくんだろうけど、もう仕方ない、生きていってやるから、そこで見とけよ、みたいなそんな感じ。


とりたてて文体に特徴があるわけではないけれど、読みやすいのと、比喩がわりと面白い。
理不尽な世界に対して言い立てる、さらに輪をかけて理不尽な「口撃」が楽しい。
何カ所かで、思わず吹いた。
図書館なのでずっと口を押さえていたが、家で読んでいたら間違いなく声を上げて笑っていた。
結構笑える。
そして最後にそれなりに感動できる。
小説としてとりたててどうこう、というものはないのだけれど、物語としては非常に面白かった。

書評『新潮』2007年3月号

笑った、といえば、石川忠司による『ミステリアスセッティング』の書評を読んで、思わず笑ってしまった。
阿部和重は『グランド・フィナーレ』までは読んでいたけれど、何故だか『プラスティック・ソウル』を買い損ねて、そのせいで『ミステリアスセッティング』も見送っていたのだけれど、この書評を読んで思わず買ってしまった。
阿部和重作品というと、主人公の自律的な妄想が暴走していくことが特徴だが、今作ではむしろ依存的な妄想が描かれているのだ、とあって、阿部作品における自律的な妄想についてレポートで論じたりした手前、これは読まなければなるまいな、と思ったのも確かなんだけど、
むしろ一番心惹かれたのは、「スーツケース型核爆弾」が出てくるところ。
「(主人公の少女は)スーツケース型核爆弾を押しつけられてしまう」
って何だよそれって笑い転げてしまった。
それから、鹿島田真希による書評も読んだ。
モーツァルトについての本についての書評。
いわく、モーツァルトは、父親、言葉、カソリックの3つの父性原理に抵抗していたのだ、というもの。
モーツァルトの曲は、父親からの厳しい教育を受けていたことを感じさせない、とか。
モーツァルトのスカトロ趣味とか。
なんだか、「ピカルディーの三度」に直結するような書評だなあ。


新潮 2007年 03月号 [雑誌]

新潮 2007年 03月号 [雑誌]

群像 2007年 03月号 [雑誌]

群像 2007年 03月号 [雑誌]

新潮 2006年 06月号 [雑誌]

新潮 2006年 06月号 [雑誌]

*1:鹿島田はもう文庫化してるみたい

*2:鹿島田の代表作(?)は『六〇〇〇度の愛』、本谷の代表作は『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』とにかく「愛」って言葉を派手派手しくタイトルに使う。舞城みたいだねw多分、やけに見かけると思っているのはこのせい

*3:この左手は、母親に忌避されたものであり、佐倉に対して脅えたものであり、最後に身体の音を聞かせてくれるものである