赤坂真理『ヴァイブレータ』

仲俣が『ポスト・ムラカミの日本文学』でポップ文学と呼んでいた人たちを読もうキャンペーン第1弾!


言葉と身体を作り替えていく物語。
まず、この作品は非常に女性的な感性で書かれている。一方で、そこには性別とは関係のない普遍的なものもあり、また非常に個人的な感覚もある、当たり前のことだが。
単純に好き嫌いの判断を下しにくい。
何だかとても読みにくい部分もあった一方で、とても入り込める部分もあった。


「血がうだってぇ?」とか「フラッシュを、使えええぇぇぇ!」とか、冒頭にある主人公の、半ば暴力的な言葉の使い方に、まず惹かれた。
言葉の解体はさらに続いていく。
主人公の女性は、突然トラックの運転手についていって東京〜新潟間を往復するのだが、トラックの中で行われる無線の会話や、カセットテープでの録音などの下りが、面白い。
区切りが消えている。
自分の聞いた音をそのまま文字に置き換える作業。
書き言葉は、色々と制約があって、音をそのまま文字にするのが案外と難しい。だが、その制約を取り払いながら、その作業をしていく。


半透性。
読み終わったときに浮かんだキーワードだ。
言葉や声や様々なものが、溶けている。溶けていることは、作中で何度か強調されるのだが。
それらは普段膜に覆われていて、他のものと混ざらないように区別されている。アイデンティファイされている、といってよいかもしれない。
しかし、その膜を半透性や全透性にしてやることで、お互いに混ざり合う。
音を聞いているとき、普通私たちは言葉を弁別している。この声は、Aさんのセリフ、こっちはBさんのセリフ、と。すると書き言葉にすると
Aは「〜〜」と言った。Bは「・・・・」と言った。
などとなる。
しかし、それを解体してしまう。
〜〜・・・・〜・・〜
言葉だけではない。
むしろ、身体を解体していく。
これは女性的だと感じた。無論、男性にもあるだろうが、身体を疎ましく思う感覚は女性により強いように思う。
身体という膜に包まれている私。
冒頭、主人公の女性には自分がなくなっていた。

あたしに自分の言葉はない。

彼女は、頭の中で自分ではない声が鳴り響くことに苦しんでいた。そして、食べたものを吐くことで快感を得ていた。
身体という膜の中が、ひたすらカラッポに、あるいは腐っていっていた。
この「自分がない」という感覚。自分はないのだけど、身体の膜だけはものすごく自己主張している感覚。
冒頭で示されるこの感覚は、なかなかみんな共感するところだと思う。あと、ある自分とそれとは別の自分が「共存できない」というセリフなんかも、ざわっとする。
さてそこで、その膜を半透性にして、一度私をどろどろに溶かしてしまう。

いろいろな部分から水を吸い、粘膜を裏返し、全身を毛穴にして、全身を使って彼を吸い、彼を食べ、全身を舐められ、全身を吸われ食べられた。それだけのことだった。意味はない。
ただあたしは自分が、いいものになった気がした。

いいもの(=彼)を取り込んで、いいものになる。
再生できてめでたし、という話なのだが、やはり溶けたり混ざり合ったりしている部分の描写がこの作品の肝だと思う。


ヴァイブレータ (講談社文庫)

ヴァイブレータ (講談社文庫)