東浩紀・北田暁大『東京から考える』そして、僕の帰るところを考える

東浩紀、ウン年ぶりの新刊。
サブタイトルには「格差・郊外・ナショナリズム」とあるし、そもそものテーマは「東京」
それほど自分にとっては興味を引く話題でもなかったのだが、東浩紀だから買った。
とはいえ、それでもやはり面白い本ではあった。


例えば、成城トラカレのchikiさんも言っているけれど、この本を読むと自分の街について語りたくなる。また、結論や事実を提示するというよりは、今後の議論を喚起させるような内容。この本をベースにして、色々とディスカッションをするのもまた、面白いかもしれない。
若者論というのは、かつて誰もが若者であったことがあるゆえに、議論を喚起しやすいということを聞いたことがある。同様に、都市論というのもそういう力があるのか、ということに気付いた。

内容

東京で生まれ育った、東と北田が自分の育った、あるいはよく行く街から、自らの思想の原点を探る。
企画内容からして、自分語り的になるのは当然で、個人的な思い入れから対談は始まる。だが、そこから自分の思想へと繋いでいく作業はやはり面白い。
ところで、東と北田は、立場も思想の内容も非常によく似ている。だが、本書ではむしろ対立点・相違が浮き彫りになっていく。
北田は、良くも悪くもアカデミックなところがある。確証が持てない部分はなるべく慎重に語り、議論は丁寧である。だがその一方で、抽象的だったり論壇的(?)だったりする。「東京から」というより「社会学から」になってしまっているといえばいいのか。
東は、その逆で、少なくともこの対談においては、体感的なものから議論を始めようとする。それゆえ分かりやすく共感しやすいが、粗い議論になったり個人的な感覚になりがちなところがある。
そのお互いの相違が、わりとカチッとはまって進んでいくので、読みやすい。

Ⅰ 渋谷から都市を考える

東は、小学生から大学生までを渋谷近辺で過ごしている。
住んでいたのは神奈川の方らしいのだが、塾(渋谷)、中学・高校(駒場)、大学(駒場)の位置の関係で、渋谷にはよく来ていたという。
そこで東は自分にとって渋谷は「ヴァーチャルな地元」だという。RPGの世界のようにして、渋谷を歩き回っていた、ともいう。
匿名的、ゲーム的、あるいは第四空間としての都市を語る一方で、パルコ・広告・物語的な渋谷像をキャンセルしていく。

Ⅱ 青葉台から郊外を考える

東の住んでいた青葉台と、北田の住んでいた柏とが、比較されながら二つの郊外のあり方が見えてくる。
広告・シミュラークル的郊外と、ジャスコファスト風土的郊外である。
前者は、いわゆるニュータウンであり、アッパーミドル層が住み、コミュニティ意識が強い。
後者は、ジャスコをはじめとする郊外型大型店舗が軒を連ねる、非常に殺風景で、かつ、便利な地域である。
本書は、ジャスコファスト風土化をどのように捉えるか、というものが一つのテーマとなり続ける。
東・北田共に、それは抗えない流れだと認識するが、東はどちらかといえばそれを肯定し、ジャスコ化した街で如何に生きていくかを問うのに対し、北田はどちらかといえばそれを否定し、ジャスコ化を防ぐにはどうすればいいのかを問う。
ジャスコ化の防波堤の一つとして考えられる選択肢の一つが、広告・シミュラークル的郊外である。
この種の郊外は、土地のイメージを重視する。街の美観、治安を損なうものを排除しようとする。それゆえ、ジャスコ的なものもまた排除されるが、それは同時にゲーテッド・コミュニティ化にも繋がっていく。
また、そのようなイメージ重視は、メディアによって作られた集団幻想にすぎない。それゆえに、東・北田は「広告」郊外と呼ぶのである。
その他、渋谷や秋葉原ジャスコ化を免れない、とも言う。渋谷はかつて、西武・パルコによる広告・物語があったが、いまではそのようなイメージは消えている。今の渋谷は情報とモノのアーカイブとしてある。それ故、ジャスコを防ぐような何かがない。

Ⅲ 足立区から格差を考える。

東京の西側から東側へと視点が移っていく。
まずは、東京の東西格差について論じられる。統計データなどを見ると、東京の東と西にははっきりとして格差が現れている。
だが一方で、それは街の風景に現れているのだろうか。
足立区の風景の中に、そのような所得格差を見ることは難しい。
その逆が、六本木や東雲にも見て取れる。例えば、東雲には今高級マンションが建てられているが、そのマンションの住民が買い物に行く先はジャスコしかない。
あるいは、三浦展が示した下流の生活は、堀江などのヒルズ族にもあてはまる。コンビニにジャージで買い物をしているような同じような姿をした人たちが、かたやニートでかたや億万長者ということがありうる。
つまり、経済力と、生活スタイルが必ずしも対応していない。
金がある→勉強ができる・文化資本に触れることができる→インテリになる、という経済格差=文化格差というものがあった。だが、今ではそれは必ずしも自明ではない。
おそらく、経済格差は確実にある。
一方で、そうした格差を直接目にするのは難しくなっている。

Ⅳ 池袋から個性を考える

エスニック・タウンについて、あるいは下北沢について議論される。
ここでも不可視化が進んでいる。
はっきりと目に見える形で、エスニック・タウンとして形成される街は今後あまり生まれないのではないか。一方で、それらは例えばネットの中で生じてくるのではないか。
東は、街を画一化していくことを語ろうとする。
つまり、多様なライフスタイルを肯定する価値観は、画一的な街を要求する、ということだ。
例えば、「若者・サブカルの街」は、若者・サブカル者以外のライフスタイルを許容しない。そうではない街の住人のライフスタイルを考えれば、ある程度のジャスコ化は否めないのではないか。
それでも街の個性を維持しようとするのは、ノスタルジックなテーマパークを作ることにすぎないのではないか。
一方で北田は、必ずしも全ての街が、画一化あるいはジャスコ化しなくてもよいのではないか、と考える。無論、利便性やセキュリティは確保された方がよいが、それはそれぞれの街の個性に従って行われるべきなのではないか。
また、その街の個性を奪うことは、かつてその街の個性を享受してきた者たちを既得権益者にして、世代間闘争を生み出してしまうのではないか。

Ⅴ 東京からネイションを考える

家族について議論される。
本書では何度となく繰り返されるのだが、東は娘が生まれていて、この対談企画中、転居を計画していた。そのため、生殖の問題に強く関心を持っている。
これは、娘が生まれたことと決して無関係ではない。それは東自身も認めている。だが一方で、これはかねてより東が関心を抱いていたことでもある。例えば、網状言論F改では、セックスすれば子供ができるでしょ、とラカニアンの斎藤環に迫っていたりする。
人間が動物である限り、セックスによって世代を重ねていく、という事実から逃れることができない。これが東の中心的な命題である。
さて、ネイションというのは、ラテン語のnatio、フランス語で言えばnâitre、つまり「生まれる」が語源となっているらしい。
つまり、この事実は、ナショナリズムにつながりやすい。
2ちゃん的ナショナリズムなどよりも、このような血のナショナリズムの方が、よほど対処が難しいと東はいう。
人間は、そのような動物的な事実から逃れることができない。しかし一方で、そのような事実と人間性の間をどうにかして折り合いをつけなければならない。
最後に、そのためにローティが持ち出される。
ローティを巡って、東と北田の対立点が再び繰り返されることになる。

そして僕が帰るところを考える

この本は、どうも自分語り的なものを刺激させる。
僕は、生まれてからおよそ20年近く札幌に住んでいた。今は、東京からおよそ1時間圏内にある、まさにジャスコ的郊外な街に住んでいる。
今住んでいる街は、例えば外国人が沢山住んでいて、肌の黒い子供がジャスコを走り回っている風景を見て何ともいえない新鮮さを感じた、といったことはあるものの、基本的に殺風景でよそよそしい。
この本を読みながら、帰属意識についてずっと考えていた。
それは、この本が渋谷に対する地元意識ということから始まったからだと思う。そして、最後で家族に触れるにあたり、ますます思いが強くなった。
札幌という地への帰属意識
家族という血への帰属意識
僕は今、札幌について(特に狸小路について)書いたのだが、あまりにも長くなったので消した*1
そして長々書いた結果として、結局よく分からない。
僕がそこで書こうとしたのは、札幌という街の中には、ほんの数百メートル四方にもジャスコ的なものと非ジャスコ的なものが雑然と詰まっている、ということだ。
だがその雑然さを僕はどう思っているのだろうか。
例えば、下北沢の雑然さについて語る人がいるとしたら、その人はおそらく下北沢の魅力や個性について語っているように思う。そして、そうだとしたら、その人はおそらく下北沢のことが好きなのだろう。
でも、札幌はそういう街に比べれば非常に整然としている。そして、札幌の雑然さを語ろうとしていた僕は、札幌のことが好きなのか嫌いなのかよく分からない。
少なくとも嫌いではない。
でも、好きというよりは、単純に便利なのだ。今いる街と比べて圧倒的に。
札幌を離れて僕は、札幌を恋しく思うことがあるが、それはその便利さに対してであって、もし札幌と同じくらい便利な街に今住んでいれば、そんなことは思わないかもしれない。
あるいは家族について。
僕は、家族の良いところと悪いところを順に挙げていくことが出来る。でもだからといって、それが何なんだろうか。血の繋がりなんて言われても、さらにわけがわからない。
地にも血にも、皮膚感覚的なリアリティを持っていないと思う。
それは多分、そのどちらも普段強く意識しないからなのだとも思う。強い愛着も不満もない。
帰るところには違いないけれど、でも少しずつ帰らなくなっていくことも想像できる。
どうにももやもやして仕方がない。


今聞いているGARNET CROWの曲の中で、何だかぴったりなものがあった。

愛すべき僕らの街で
いつか
誰かを傷つけたりしてる


(中略)


愛すべき僕らの世界(まち)で
今も
生み出す狂気の調べ


愛してた小さな生命(せかい)
何度も
尽きてゆくのを みつめていたの


愛すべき僕らの街で
今日も
目覚めたら 降り注いだ Sky
(『Sky』作詞:AZUKI七

「愛すべき僕らの街」は、多分なんら特別な場所ではなくて、傷つけたり傷つけられたりする、すごい日常的な場所でしかないのだと思う。
佐藤心は、そういう日常的な空間を全て見据える超越的な概念を「空」と呼んでいた。


東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)