再読した。
前回これを読んだときは、「自分のやりたいことは全部やられた」的なインパクトを喰らった。
今は、自分が小説で書きたいことは変わってきた*1ので、そういうショックはなかったけど、しかしやはりすごいなあと思う。
類似のテーマではしばらくは他の誰も書けないのではないだろうか、と思う。
映画では『未来世紀ブラジル』がかなり究極のところまで押し進めている*2のだけど、小説ではこの『九十九十九』がやってのけている、という感じ。
JDCトリビュートという、いわば流水の作品の二次創作としてあるせいだろうけど、とにかくネタが多い。
流水は一つも読んでいないから何とも言えないけど、多分流水のせい。
駄洒落もそうだけど、講談社ノベルス周辺の人名への言及が異常に多い。
舞城は、そうでなくてもバカバカしい文章を書く人だけど、このネタの多さがバカバカしさというか滅茶苦茶さを増している。
やはり舞城作品の中では、これは随分と特異な作品なんだと思う。
三島賞とった『阿修羅ガール』とか、芥川賞候補になった『好き好き大好き超愛してる』とかは、そういう意味では滅茶苦茶さが足りない。舞城作品としては、あれらは全然おとなしすぎるのだ。
佐藤友哉という名前の登場がやけに多い。
もちろんぶっちぎりで多いのが清涼院流水で、次に多いのが太田克史なのは当然として、おそらく彼らに次いで言及数が多くて、3回出てくる。
笠井潔は名前の登場こそ1回だが、その大量死理論(?)は何度か出てくる。他には、島田荘司、京極夏彦、竹本健治、東浩紀の名前が1回ずつ。西尾維新の名前は出てこない。
佐藤友哉の名前は3回も出てくるのに、西尾維新の名前は1回も出てこない。
これはやはりそれなりに意味のあることだと思う。
『クリスマス・テロル』(の終章)について文章を書いていて、そこで書いていたことと図らずもリンクしていく感覚が読んでいてあった。
ある意味では、それは当然とも思える。
今日、『暗闇の中で子供』を借りた。
それから佐藤友哉も再読しようと思っている。
それで、佐藤友哉論をなんか書こうかと考えていて、今のところ舞城を絡める予定はないのだけど、もしかしたら絡んでくるのかもしれない。
他に、以前書いた『グランド・フィナーレ』に関する小論*3と、次に書く予定の中原に関する小論とを組み合わせて、まとめようという企てをしている。
- 作者: 舞城王太郎
- 出版社/メーカー: 講談社
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*1:そもそも最近小説を書けていないけど。ただ、書きたいとは思っている。書きたいものが、今までとは別の方向を向いている。漠然としてるけど、書かなきゃなあ