言語は現実の世界と直接結びついてはいないのだ。むしろ仮想の世界を作り上げると言ったほうがいい。
■言語について素朴に考える(1) −東京猫の散歩と昼寝
という部分を読んで、西垣通の『こころの情報学』を思い出した*1。
上述の記事では、人の使う言語と動物の使う言語との違いは、シンボルの有無とされている。
一方、西垣の場合*2、それを文法の有無*3に求めている。
つまり、言語の起源において、まず意味論のみの言語が作られる(これは人以外も使う)。「意味論のみ」というのは、ここでは、言葉と現実にある指示対象が一致していることを指しているのでインデックス的と言うことも可能でしょう。
そしてその後、統語論(文法)の持つ言語が生まれた。
では何故このような順序で言語が進化したのか、西垣は以下のような仮説を挙げている。
つまり、フィクションを伝えるため、である。
神話あるいは時空間的に隔たった出来事を伝えるためには、文法が必要になる。
目の前に泣いている「ぼく」がいれば、「兄ちゃん、ぼく、ぶった」でも「ぼく、兄ちゃん、ぶった」でも兄が暴力を振るったのは一目瞭然でしょう。しかし語られるフィクションのなかでは、「怒った王は戦士をなぐりつけました」と「怒った戦士は王をなぐりつけました」との内容は天と地ほど異なります。
『こころの情報学』P.139
このような例以外にも、文法があることによって、反実仮想が表現できるようになるなども挙げられるだろう。
言語というのは、まず目の前にあるものを指示する指標として使われ始め、さらにフィクションあるいは時空的に隔たった出来事を伝達する必要性が生じ、文法などを持つに到った。
言語が、インデクスとしてだけでなく、シンボルとしても機能するようになったのも、おそらく同様だと思われる。
「恣意的」な関係性、というのがきっとポイントです。対するのは、「論理的」な関係性。論理的な関係からは意味は出てこないんですね。(中略)論理的に順を追って導き出せるものは、「あたりまえだ」と感じてしまうんですよ。そうではないもの、非論理的なもの同士の結びつきにこそ、「ウラに何かある」と人は感じられる、ということ。
■言葉と意味 −「で、みちアキはどうするの?」
論理学をちらっとやったとき*4、演繹というのが「すぐには論理的だと分からない式をすぐに見て論理的だと分かる式で橋渡しすること」と説明されていた。
「すぐに見て論理的だと分かる」というのは「あたりまえ」ということ。
前提:P→Q、Q→R、結論:P→R
みたいなのは、「あたりまえ」だと思うわけで「論理的」。これをどんどん繰り返すことによって、何かを導き出していくのが、論理的思考。
では、非論理的思考というのは、何かといえば、「ロシア・フォルマリズム」の「異化」だと思う。
たとえば「小さな子どものように」という比喩を見ても僕たちの意識は立ち止まるまい。ありふれた直喩を再認するだけで先に進むだろう。だが「まるで小さな不確かな子どものように」(村上春樹)という表現に出合うとき、「不確かな」の一語は「人の目に障り、耳につく」ような違和感をもたないだろうか。
『現代批評理論のすべて』P.19
このように、「あたりまえ」ではない表現を使うことで、違和感をもたせる方法のことを「異化」と呼ぶ。
ローティはこれをさらに拡大解釈して、このような「異化」を行うこと=メタファーをつくることが自己創造であると考え、自己創造を行う人のことを詩人と呼んだ*5。
ちなみに、ロシア・フォルマリズムでは、「異化」を担う言葉のことを「詩的言語」と呼ぶ。
さて、この「異化」というのは、続いて「自動化」というのを引き起こす。
「異化」作用のある「詩的言語」は、確かに最初「人の目に障り、耳につく」のだが、人はそのよう表現に対して次第に慣れていってしまう。新奇な表現も、いずれ違和感を覚えなくなり、普通に使うようになっていく。これが「自動化」である。
ところで、この「異化-自動化」を経てきたのが、シンボルではないだろうか。
ハトは平和のシンボルである。しかし、ハトと平和は、何一つ「論理的」で「あたりまえ」の関係をもっていない。ピカソの絵は、最初驚きをもって見られたのではないだろうか。つまり、そこには「異化」作用があったのではないだろうか。だが、この組み合わせにみんな慣れてくると、ハト=平和というシンボルとして定着していった。
どうでもいい余談だが、ピカソの絵がなくて、ジョン・ウーの映画だけがあったら、ハトは戦闘のシンボルになっていたかもしれない*6。
引用文献
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パースは、前々から、(本人の本でも、解説書でも)何か一冊くらい読んでおこうと思いながら、未だに読めていない。
三項関係で整理する*7パースの記号論は面白いと思うのだけど、その後直接的に継承している人がいないようなので、何だか触れにくい。
また、言語哲学について、見取り図的な本は何かないものか、と思っている。
特に議論の流れが分かるような奴。
この人のこういう考えが、この人によってこう批判されて、さらにこうなって、という系統樹を把握したい。
とはいえ、今回上に上げた、パース、西垣、ロシア・フォルマリズムとかは、いわゆる「言語哲学」の系統から離れてしまうからなかなか難しいなあ。
*1:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060208/1139382631
*2:正確には、西垣がビッカートン『ことばの進化論』を引用している
*3:後者において、完全に文法がないわけではないが
*4:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060327/1143429817
*5:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20051230/1135914660
*6:ウーが何故銃撃シーンにハトを使うのか、僕はよく知らないが、おそらくハト=平和ということを「異化」しようとして使っているのではないか、と思う。そうすると、ピカソの絵がなければ、ウーがハトを使うことはなかったかもしれないけど
*7:ソシュールの記号論はシニフィエ-シニフィアンの二項関係なのに対し、パースはそれら2つに加えて記号を解釈する者を加える三項にするらしい。イコン、インデックス、シンボルという整理も三項だし