伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』

「何読んでるの?」と聞かれて表紙を見せたら、ひかれた。
またそんな小難しそうな本読んで、と思われたようだ。
だとすれば、この本はタイトルで損をしている。
この本は科学哲学に関する入門書で、非常に読みやすく、また分かりやすい。
帰納法って何?反証可能性は?パラダイムって聞いたことあるけど?実在論論争とは何?
あるいは、
科学的ってどういうこと?とか有意な差ってどういうこと?
と思っている人*1には、非常によい入門書*2
もっとも、今ここにあげたようなことに全く興味も関心もない人にとっては、まだ小難しく見えるかもしれない。
しかし、この本は、ただそういった概念や学説を丁寧に解説しているだけではない。具体的な事例にあてはめて解説してくれる。
この本のテーマの一つは、科学と疑似科学*3の間に線を引くことができるかどうか、だ。
創造論と進化論、占星術天文学、超能力を扱う超心理学代替医療があげられる。
進化論を否定し、神による創造から生物学を考える創造科学は本当に科学なのか。
天文学はかつて占星術とその発展を一にしてきたが、今では天文学は科学で占星術は科学ではないとされている、どういうことか。
超心理学というのは科学的なのか。
代替医療というのは、非常に広く、通常の医学によって認められているものも多数あるが、しかしそれらはいわゆる「科学」とは相容れない理論に依拠している。そうしたものも「科学」的な医療と同じ扱いをしてよいのか。
かなり、興味を持つ人が増えるのではないだろうか。
この本の中で、はっきりとした答えは出ないけれど、かなり明快な指針は出てくる。結論としては、「これは本物、これは偽物」って断言することは出来ないけれど、「より正しく思われるもの」や「間違っているだろうと思われるもの」を見つけていくことは出来る、という言ってしまえばごく当たり前の、しかし忘れられがちな話*4
さらに言えば、この本は、口語体で書かれていて読みやすくなっている。
難しい言葉が沢山出てくるかもしれないが、それらは全てかみ砕いて説明してくれる。
この口語体は、野矢茂樹戸田山和久と似ている。
そういえば、日本の分析哲学系の学者は結構そういう書き方をするような気がする。野矢、戸田山、伊勢田と既に3人いるし、冨田恭彦は小説形式で登場人物に哲学の説明をさせる。

内容

まずは、科学の方法論の話から始まる。
帰納法とそれに対するヒュームの懐疑にふれた後、ポパー反証主義が紹介される。
分かってたつもりだけど、ちゃんと分かっていなかった反証主義
反証の連鎖は終わることがない。
問題点として挙げられているのが、過小決定。決定実験を行う際の条件を一体どうやって決めるのか、という問題。
観察の理論負荷性や通訳不可能性の話となる。
クーンのパラダイム、それを改良したラカトシュのリサーチ・プログラムが紹介される。科学史を記述する上で、この方法は結構使えるようだ。
続いて、実在論のお話。
今まで話してきた方法論が、科学哲学の認識論だとすれば、実在論は、科学哲学の形而上学*5
伊勢田自身は、科学哲学の実在論論争は2つの立場がもう大体歩み寄っているのではないか、と考えているみたいだけど、それが本当に解決になっているのかはちょっとよく分からなかった。
実在論を完全に擁護するのは結構難しいのだけど、反実在論もそんなに強力というわけではないみたいだ。
むしろRATIOに載っている戸田山・伊勢田往復書簡の方が面白いかも。
ところで、科学というのは科学の外から見ても価値がある営みなのだろうか。
科学の正しさ、とは何に拠っているのか。
こうした疑問に対して、科学知識社会学やファイヤアーベントは、非常に相対主義的な考え方をする。
例えば何らかのパラダイムが変化するとき、パラダイム間の優越はどのように判断されるのか。クーンやラカトシュは、そこに合理的な基準があると考えるが、ファイヤアーベントはそうは考えない。その際、コペルニクスの神学的動機に注目する。あるいは、科学者コミュニティの中での社会的な要因が非合理的に働いていると考える立場もある。
こうした相対主義に対する反論も当然ある。
相対主義者には非合理と見なされる事例などの中も、実は合理的な要因が働いていることが発見されている。
また、知的価値と社会的価値を分けて考えることなどが提案されている。科学における知的価値は、社会的価値から独立してある。
最後に紹介されるのが、統計学、統計的検定法とベイズ主義だ。
統計的検定法がどういうことか知ることで、例えば「有意の差」という言葉の意味について知っておく。
何らかの仮説が確かめられるときにどのような方法がとられているか、ということ。
次のベイズ主義は、確率を信念の度合と考える立場だ。
例えば50%というのは、半分くらいは確からしいと思うことが出来る、ということだ。
伊勢田は、このベイズ主義を取り入れることで、線引き問題、過小決定や実在論論争、政策決定などがある程度調停可能ではないか、と提案する。
何らかの方法を用いて、白黒はっきり分けることは出来ない。疑似科学とも科学ともいえないジャンルも沢山存在する。
しかし、「程度」によって見通しを付けることは出来る。


借りて読んだのだけど、便利なので買いたい、と思ったりしている。

疑似科学と科学の哲学

疑似科学と科学の哲学

*1:まさに自分

*2:『科学哲学』は、科学哲学の歴史とエピステモロジーを知るのにはいいけど、出てくる○○論が結局どういうものなのかはよく分からない。ラカトシュとかファイヤアーベントとか

*3:まさに今流行りのエセ科学

*4:議論などをすると、何故か極端な意見が出やすくなる

*5:そういえば、確かに『知識の哲学』とかでは触れられていない。そういえば、『知識の哲学』で戸田山は自然化された認識論を一つの到達点として描いてみせたが、伊勢田は自然化という立場に批判的だ。哲学者としての怠慢と考えている