ゲーム・データベース・キャラ/キャラクター

ゲームで使われるパラメータというものを使って、東のデータベースと伊藤のキャラ/キャラクターを繋ぐ試み。
「パラメータ化への欲望―ゲーム・データベース・キャラ/キャラクター」
長い文章なので、blogではなくてこういう形でうp。
ここでは、この文章のサマリーを。本文から抜粋して並べただけなので、読みにくいと思われる。下のにさっと目を通して興味を持てそうであったら、上のタイトルをクリックして本文を読んでもらいたい。本文の方が読みやすいので。

小説、映画、マンガ、ゲームは「ストーリー」と「システム」の両者が、受け手によって絶えず意識されて受け取られる。ゲームといった物語メディアには、「ストーリー」と「システム」という2つの側面がある。さて、ゲームの「システム」と一口で言っても、それには様々な種類があるだろう。ここではパラメータというものに絞って考えたいと思う。
受け手は、ゲームをする際、例えばグラフィックなどを見て登場人物などを把握している。しかし、それらは全てパラメータへと還元される存在なのである。これは、ある人格の特徴や能力、状態(以下ステータスと表記する)が、全て量的差異によって表現可能になっていることを意味する。本来、つまりゲームの外の現実において、ある人格のステータスは決して量的差異によって表現されない。それは質的差異によってのみ表現されるものである。感情を例にとってみればわかるだろう。喜びや哀しさは、パラメータには還元できない。
ステータスのセルフリファレンスとは何か。簡単に言えば自意識のことである。「我思う故に我あり」の「思う我」という言い方も可能だろう。
ステータスを質的差異と捉えることによって、このセルフリファレンスは、近代が想定するごく普通のやり方で機能する。ある何らかのステータスが生じたとき、記憶を元に過去のその他のステータスをリファーすることになるだろう、このリファーによって現在のステータスと過去のステータスの間の持続が生じるのである。この持続がアイデンティティ、つまり自分が一貫していることの証明となる。そしてこのような持続・記憶があるからこそ、ステータスの変化は質的差異を伴うのである。
それに対し、ステータスを量的差異と捉えるとどうなるのであろうか。等質化は、過去の痕跡を消す。容易に比較可能であり、配列や操作が可能となる。リファーする際には記憶は必要ない。よって、持続や時間が生じることもない。他のステータスのリファーにおいては、ただ数値を比較すればよいだけなのであり、過去との記憶を通じたやりとりは必要ない。それは、未来のステータスや他の人格のステータスのリファーも可能にする。時間軸や一貫性という概念は生じてこないか、あるいはきわめて希薄になるであろう。記憶や時間の生じない世界には、瞬間のステータスだけがある。これを原アイデンティティと呼ぶことにしよう。原アイデンティティがそれぞれ個々に配列されている空間を想像してみよう。それらは等質であるが故に比較が容易で、順序や一貫性を必要としないのである。
僕はこの浮遊する原アイデンティティのことが、伊藤剛のいう「キャラ」であると考えるのである。つまり、ある人格があったとき、そのステータスが全てパラメータ化されるとき、その人格は「キャラ」である。しかし、そのステータスの全てが必ずしもパラメータ化されないとき(質的な差異を残す限り)、その人格は「キャラクター」である、と言えるのではないだろうか。
さて、続いてデータベース概念との接続を試みなければならない。データベースが生み出すシュミラークルは、原アイデンティティしかもたない「キャラ」なのである。

本文では、「キャラ」が「キャラクター」に立ち上がる様をゲームの中にみる。また、データベース概念にパラメータ概念をもたらすことによるメリット(斎藤環による反論への反論)を書いた。

パラメータ概念とは決してテレビゲームに固有のものではない。それは、数量化といった操作によって生まれたものだ。この数量化という操作は、近代科学に特徴的な操作でもある。この数量化が人間の思考様式に影響を与えている可能性はあるのではないだろうか。
現実の自分のステータスをパラメータ化するという欲望が、どこかに働いていまいか、と考えてみたい。
『検証・若者の変貌』の中で指摘されているような多元的自己の、理論的解釈が可能になるのではないだろうか。原アイデンティティ状態のステータスを自分の内部に複数持ち合わせながら、しかしそれを持続・記憶によって統合しようとしない自己が、多元的自己と呼ばれるものなのではないだろうか。
パラメータ化することによって可能になることは、ステータスの数理的操作だ。何らかのアタッチメントを自らに加えることで、自らの感情を自在にコントロールすることが可能になる。通常、感情は時間に伴って変化するものである。しかし、パラメータ化された自己にとって時間軸は存在しない。アタッチメントの付け替えによって瞬時に変化する。


ゲームというのをほとんど知らない人間で、ましてやゲーム評論なども知らない。
なので、パラメータという概念に注目することが、ゲーム評論としてどういうものになるのかは分からない。詳しい人間に教授願いたいところ。
ゲーム評論に関していうと、本文の最後にオマケとして、自分の知っているゲーム評論の現況について書いてみた。*1
今回は、テレビゲーム一般と東浩紀伊藤剛を繋ぐ、という非常にオタク論的、表象文化論的な素材なのだけれど、実は真のテーマとしては、現代の自己に関する哲学的考察(?)となっている。
参照先はベルクソンベルクソンは数量的なものより質的なものを重視するわけだけど、質的なものは量的なものに還元しきることはできないのか、というのが僕のここんとこの興味*2
パラメータ化への欲望、というのは、まず僕自身の欲望なのである。


自己・主体といったものを、量的なものへと還元すること。
これは、近代のやり方とは相反する。近代的自我は、その核に数量化できない質的なものを抱えている。ベルクソンの持続、ラカンの対象αなど。
全部数量化できればすっきりするのではないか、と僕は考えてしまう。
以前「総検索社会と外延化するアイデンティティ」の中で、数量化された自己を外延化するアイデンティティとして描いた。
今回は、さらに進めて原アイデンティティなるものが出てきた。
複数の原アイデンティティを一つのアイデンティティに統合させない自己*3


昨日書いた「生活世界(思考の整理・概観)」の中では、原アイデンティティのことを浮遊する主体と書いた。
時間軸だとか物語だとか質的なものだとかを、安易に生活世界とイコールで結んでよいのかどうかは分からないけれど、個人的にはそれらがアナロジカルにつながっているイメージ。
システムが生活世界にアンカーをかけられずに浮遊する。
アイデンティティが時間軸のアンカーをかけられずに浮遊する。
数量化というのがシステム化とほぼ同義となるのは当然ともいえる。
そして、自分は何故か、質より量を、生活世界よりシステムを擁護しようとしている。
パラメータ化への欲望。


補記(061217)
ふじもとさんからのコメント

むしろある一点を過剰に強調したほうが、印象に残るユニークな人になるのだ、という意見もある。

これに対して、

そういうものが「キャラ」を「キャラクター」へと変えていくのかもしれません。

などと答えたのだけど、
ユリイカの06年1月号をパラパラと眺めていたら、伊藤・夏目・東鼎談の中で、藤本由香里斎藤環が、

設定として二、三行で書けるというもので、それが「キャラ」の本質なんじゃないかと思うんですが

シンプルな特徴に近づくほど「キャラ」に近づいて、記述要素が増えるほど「キャラクター性」が増すという分け方が可能だと思うんですね

と答えている部分を見つけた。


補記2(061217)
存在論的、郵便的』を読んでいた時のメモにこんなのがあった。

付記(06.2.20)
記号の同じもの性(mêmeté)と同一性(identité)の違いは、伊藤剛のキャラとキャラクタに布置できるのではないだろうか。
どちらも前者はコンテクストをなくした上でも「同じ」あるのにたいし、後者はあくまでもある特定のコンテクスト上で「同じ」であることである。

アイデンティティという造語を作らずに、mêmetéという語を使ってもよかったのかな。
mêmetéという語の意味がよく分からないので何とも言えないけど。

*1:オタク系の研究に関して最近問題だなと思うのは、仮に過去に議論があったとしてもそれがリファー可能な形でアーカイブされていないこと。

*2:参照:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060319/1142754372http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060430/1146383500http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20060610/1149959280

*3:(浅田の)スキゾか? スキゾってちゃんと知っているわけではないので断言できない