生活世界(思考の整理も兼ねて)

この前、研究計画案*1に必要なサインをもらいに、某先生の研究室へお邪魔した。
ほとんどうまく喋れなかったのだけど、今こんなことを考えてるということをちらっと言ったら、フッサールの生活世界論について調べてみるとよい、と言われた。
僕自身は、そこで生活世界の話が出てくると思っていなかったので、その時は全くピンときてなかった。
ただ今になってみると、確かに関係あるかもしれないと思い始めている。
まだ具体的にどうつながるかは分からないけれど、ヒントにはなりそうだなあと。


とか思っていたら、id:klovさんのblogでこんなコメントをしてしまった。
このコメントの時に出した「生活世界」と「システム」っていうのは、フッサールというよりはむしろ、宮台のICCシンポの時の発言に依拠しているんだけど*2
このコメントは、個人的な発見を伴っていた。

じゃあお前はどう考えているんだ、というと
「生活世界」など現代日本ではとっくに摩耗してしまっているので、そんなものの心配なんかしても仕方ないんじゃないか
という立場です

ここで、今まで漠然と感じていたことを、かなりはっきりと言語化、意識化できた。
生活世界がシステムに飲み込まれることよりも、むしろ生活世界っぽい奴が出てくることでシステムが止まってしまうことの方が、より怖いと思っている自分に気付いた。
僕は、自動販売機やコンビニといったものを非常に好ましく思っていて、それはそこでは「人格」的コミュニケーションをとらなくていいから。
今まではそのことを「自分は動物的だなあ」なんて軽く笑うだけだったのが、これによって「生活世界<システム」と考えているせいだ、ということが明らかになった、と。


しかし、ここまでの話をひっくり返してしまうようで悪いけど
何故僕が上述したように「生活世界はヒントになりそうだなあ」と思ったかというと、生活世界の存在がとても重要だから。
複数の整合的な論理体系があった時、「何故」「どのようにして」任意の系が選択されるのか
というのが、僕の基本的な問題意識として数年前からずっとある。
僕は今までそれに対して、「確率」とか「偶然」とかそういう説明を加えてきた。
しかし、そこに「生活世界」というものを代入してやると、もっとうまくいくのではないか、と考えるようになってきた。
科学が正しいのは、生活世界にアンカーが引っかかっているからに過ぎない、と。
ただここでもう一回ひっくり返して元に戻すと、その生活世界とやらはなんかもう摩耗して消えかかっているのではないか、ということにもなる。
そうするとアンカーを引っかける場所がなくなってしまう。
そうすることで、浮遊する主体とかリアリティ的リアリズムとかの話*3が、ようやくできるようになるのではないだろうか。


なんだかずいぶんとすっきりした。
個人的には、とても思考が整理された感じ。
無理を承知でもう少し続けると、
アンカーを引っかける場所が完全になくなってしまうのはやっぱり困るので、どっかにかけなきゃいけない。そのかけ方の一つが、inter-な何かになるんじゃないのかなあ、とかね。そして、そのinter-な何かは、おそらく「システム」そのもの。
あれ、「システム」を固定させるために使う場所が「システム」っておかしくない?
いやそれこそが、再帰性(後期近代の本質)なのではなかろうか。
そしてその不毛に見えるかもしれない再帰性に僕らは耐えねばならないのだ!!*4

*1:というと大層なもののようだが、進路調査みたいなペラペラな紙

*2:「生活世界」という言葉は、フッサールが作った後、ハイデガーハーバーマス、そして社会学者のシュッツによって使われた、らしい。だから、フッサールの「生活世界」と宮台の「生活世界」が全く別物ってわけではない

*3:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20061208/1165591029で予告と銘打った2つ

*4:とかいう割には、やけに楽しそうだな