RATIO02

ノウアム・チョムスキー冨田恭彦訳)*1「単純な真理・難しい問題―テロと正義と自衛に関するいくつかの考え」

いつも通りのチョムスキーである(ってそれほどチョムスキーの意見に触れたことがあるわけではないけれど)。
欧米諸国(特に合衆国)が如何にダブルスタンダードを振りかざしてきたか
カンボジアニカラグアアフガニスタンイラクコソボなどの例を詳細に紹介している。
その中で繰り返されるのが

われわれは倫理上の<あたりまえ>を免れている

というテーゼである。
<あたりまえ>のこと、つまりここでは「テロをしてはいけない」「テロを支援してはいけない」「テロリストやテロ支援者に対しては攻撃してもよい」というようなことが、合衆国やNATOには適用されていない、ということである。
民主主義の普遍性を謳いながら、その普遍性は合衆国には適用されないのである。
ここで少しチョムスキーを離れ、読みながら思いついたことをつらつらと述べる。
昨今聞かれるようになった「第二次大戦の日本は悪くなかった」という言説があるが、これは当時日本と同じようなことをしていたはずの戦勝国が、しかし犯罪者として裁かれなかったという点に要因があるように思う。
戦争犯罪とは、戦勝国が勝手に作ったものであり、当時の国際法にはない。
チョムスキーは上記の論文の中で、ニュルンベルク裁判についてこう述べている。

「犯罪」の実効的定義となったのは、「なされた犯罪のうち、おまえたち[敗者]は行ったが、われわれ[勝者]は行わなかったもの」である。事実、ナチの戦犯たちは、彼らと同地位のアメリカ人が同じ罪を犯したことを被告側が示すことが出来れば、赦免されたのである。

つまり、戦争犯罪とは、敗戦国のみを処罰するために作り上げられたものなのである。しかし、チョムスキーはこうも述べる。

敗者である敵と同様勝者をも罰するというのが、ニュルンベルクとそれ以後における本来あるべき結論であった。

日本は決して第二次大戦において無罪ではない、と僕は思う。
そして、同様に戦勝国もまた決して無罪ではない。そして、その戦勝国を裁く権利を唯一持ち合わせていたのは、日本とドイツだったのではないだろうか。戦争犯罪を認めることによって、逆に戦勝国の罪を訴求することが可能なのではないだろうか。
本来日本は、合衆国を停めることの出来るほとんど唯一の立場にいたのではないだろうか。
あるいは、戦後に行われた多くの戦争犯罪――そのリストのトップにあげられるのは間違いなく合衆国であり、イギリスやフランス(あるいはNATO)、旧ソ連とロシア、中国による罪状が大半を埋める――を訴求することができたのは、自らの戦争犯罪を認め、その後戦争を放棄した日本だったのではないだろうか。それが、<あたりまえ>を免れることの出来なかった、逆に言えば「普遍性」を体現しえた日本の権利と義務だったのではないか、と。
武装しテロとの戦争に参加することが日本をよい国にするとは思えない。それでは合衆国のダブルスタンダードにのるだけである。戦争を放棄し、今まで何の武力行使も行ってこなかったことは、その点においては<あたりまえ>や「普遍性」を守ってきた証拠であり、合衆国をはじめとする「戦争犯罪国」を訴求する権利へとつながると思うし、唯一「普遍性」を真の意味で達成し得た国という誇りにもなる。
(あえて、嫌韓、反中的なことをいうと、中国のチベットウイグルに対する「テロ」は言うまでもないし、韓国はベトナムに参戦している。日本はそうした点で、中国や韓国に対して十分なアドヴァンテージがある)
だが、最早遅すぎるという感は否めない。
ドイツはNATOに加盟し、コソボ空爆を支持し、参加した。
日本はイラク戦争において、自衛隊イラクへと送り込んだ。ついでに言えば、防衛庁は省へと格上げされる。

本郷和人「「新儀と先例」―天皇嗣立の修辞学」

中世日本史を研究する著者は、天皇制の是非について率直に「わからない」と述べる。
しかし、天皇制を考える上で、古代や近代ばかりが注目されるのに対し、中世が注目されないことに疑義を挟む。中世とは武士の世の中であり、天皇の政治的権力が最も弱まった時期である。天皇が政治的権力を持たない現代の天皇制を考える上で、参照すべきは中世なのではないか、と。
著者の問題意識は「天皇制は何故継続し得たのか」である。中世に置いて、天皇は武士から非常に軽視されていたし、金もなく葬儀を行うことの出来なかった天皇もいたという。著者は、北畠親房を軸にして、当時の天皇と武士の関係をつづっていく。
次の天皇をどのように決めるか、それには先例があってそのような「伝統」に基づいている。しかし、中世に置いて、時の政治情勢にあわせて、「伝統」から見れば実に出鱈目な方法で次の天皇が決められていることがある。

「伝統」は歴史の変動に彩りを添えるだけであって、けっして時の流れの奔流を堰き止めることはできない。

伝統は整合的に存在するわけではない。Aに都合のよい伝統がある。同時にAと正反対なBを支援する伝統もまたある。

その選択は伝統に準拠する形式をとりながら、その実、まったく新しい決断である。そして、私たちの主体的な創造なのである。

池内敏「「竹島/独島=固有の領土」論の陥穽」

江戸自体において、日本や朝鮮が、竹島/独島をどのように捉えていたか。
漁業資源の必ずしも豊富ではない同島は、日本にとっても朝鮮にとっても自国領土として必ずしも認識されているわけではなかった。
竹島/独島の領有に関して、1880年代より以前に遡っても、現在の問題と直接関係しない。

岡本隆司「「歴史認識」を認識する―日本と中国のあいだ」

既存の史実とはこれまで、実証主義を基軸とする歴史学の方法で構築され、おおむね間違いない、とみなされてきた歴史的事実のことである。

歴史はごく主観的なフィクション、物語にひとしい、というみかたである。これを以下わかりやすいように、「歴史=物語」論と呼ぼう。「正しい歴史認識」は必ずといってよいほど、この「歴史=物語」論の文脈にもとづいており、そのため必然的に、既存の歴史学を批判する論理となる

客観的史実の存在を前提にするということと、唯一絶対の客観的史実を証明、認定することとは、やはり別の問題であって、「歴史=物語」論をはじめ、近年の「歴史認識論議歴史学批判は、往々にして両者をはきちがているようにみえる。

中国の史書が「道徳と文章とに重きを置き過ぎる」、史料批判をほとんど「無視して」いる、というのは、中国史を知る者にとって常識である。(中略)中国では文章そのものが、観念的、イデオロギッシュだということである。

中国の「史学」は実践において、今なおランケを経ぬ、前「近代」的な段階にある。それが「正しい歴史認識」の提唱で、「ポストモダン」を経た現代のパラダイム転換と共鳴する現象となっているのは、すごぶる興味深い。史料批判と客観的史実を尊重しないところに両者の論理構造の共通性があり、(中略)「観念(ことば)」が事実に先行する、という「歴史=物語」論の趣旨は、「言語論的転回」などのパラダイム転換を待たずとも、とっくの昔の「正史」が、ひいては古今の中国文が、中国政治が、もっとも濃密に実践してきたことなのである

それぞれの歴史研究のありよう、政治的役割、そしてその社会的認知が異なるからである。一方に史料批判実証主義を軸とする歴史学に賛否が分かれる日本の学会・論壇があれば、他方に「愛国主義イデオロギーの表現法として、政治と必然的に深く関わる現代中国の「史学」があり、かてて加えて、客観的外国史と主観的自国史との隔たりが横たわる。同一の歴史的事実に対するみかた、評価、「認識」が違うとすれば、そのごく表面的な結果にすぎない。

ケネス・ルオフ「植民地を観光する」

朝鮮が植民地時代に、日本人は観光に朝鮮を訪れていた。その当時の観光ガイドを元に植民者がいかに植民地を見ていたかを調べる。
テッサ・モーリス=鈴木がいうように、近代化には同化と差異化の2つの側面*2がある。
これが、朝鮮の植民地化にも行われており、朝鮮観光にはっきりと見ることができる。
朝鮮を日本と同化(近代化)させることによってインフラを整備することで、観光客は安心して朝鮮を訪れることができる。
一方で、朝鮮が日本と違わなければ、日本人がわざわざ朝鮮に観光しに行く価値がない。朝鮮は日本と差異化される。朝鮮独自の文化や建築といったものが、観光の目玉となる。
そうした朝鮮独自の文化は、全て前近代的なものである。日本とは異なる前近代的な文化を観光して楽しむ。一方で、日本には、そのような前近代的な国を近代化(同化)させたという役割を強調するのである。

別冊「本」RATIO 02

別冊「本」RATIO 02

*1:訳者によるとこの論文は、RATIOO1に掲載されたローティ論文への再反論的な位置づけらしい。ローティは、リベラルの理論的根拠となると同時に、今のアメリカの政策を肯定しかねないという二面性を持っていてなかなかどう捉えるかが難しい

*2:参照http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20061204/1165249160