テッサ・モーリス=鈴木『辺境から眺める』

近代化、とは如何なる出来事なのか。
そこでは「近代国家化」と「国民国家化」という、似て非なる2つが同時並行的に進行する。
片方は「シティズンシップ」を形成し、片方は「ナショナル」や「エスニック」を形成する。
アイヌやウイルタ、ニヴフという北方の先住民族の経験から、そうした近代化のあり方を丁寧に解きほぐしていく。
片や日本に、片やロシア帝国ソ連によって、近代化の道を歩むこととなった北方民族。日本とロシア(ソ連)という全く異なる国による支配をうけながら、しかしその経験のかたちは非常に近い。
少数民族を、国家の内部へと内包すると同時に、国民の辺境として追いやろうとする、相矛盾した近代国家のあり方が見えてくる。


世界には2つの文明がある。
知識を集約させていくあり方と、分散させていくあり方だ。
集約型は、進歩史観を持ち合わせる。進歩史観を持った者たちは、近代化していない文明を劣った文明と見なす。
一方そうではない文明は、決して劣っていたわけではない(アイヌは狩猟民族で農耕しないと言われているが、決してそんなことはなかった。和人との交易が始まり、皮や海産物の需要が拡大した結果、農耕を行う時間がなくなり農耕しなくなってしまった)。
遠い場所を、過去の場所とみなす。
先住民族たちは、明らかに国民国家の国民とは異なる民族であった。しかし、空間的配置を時間的配置に変えることによって、彼らを自分たちの先祖とみなした。そして、自分たちと同じレベルにまで進歩させようと考えた。
こうして、先住民族と侵入者たちの間では、差別化と同化が同時に行われるようになったのである。差別化によって、国民国家における国民が形成される一方で、同化によって近代化がなされていく。この2つは本来異なっている。しかし、侵入者側はその差異を意識できない。
例えば、アイヌを日本人にすることとは、アイヌがコートを着ることだと言われる。コートは決して日本人という民族特有のものではなく、それは近代のもたらしたものである。だがここでは、それが容易に混同される。
戦後、先住民族たちは、別の民族にならずに自分たちのままで近代化する道を模索する。しかしそのころには、自分たちとは一体どういうものだったのか、という記憶は薄くなっていた。
エスニック・アイデンティティとは一体何によって定まるものなのか。それは、集団的記憶である。記憶には様々なレベルがある。個人レベルの記憶から民族、国家、人類の記憶まで。それらは、時に合流し、時に反発しあうのだ。

辺境から眺める―アイヌが経験する近代

辺境から眺める―アイヌが経験する近代