瀬名秀明『第九の日』

瀬名の新作短編集。
現在、瀬名が手がけているシリーズ連作の一環。
「メンツェルのチェスプレイヤー」
デカルトの密室」
「モノー博士の島」
「第九の日」
「決闘」
の5作品があり、うち1作は長編で『デカルトの密室』として既に出ている。
他の4作品が、この『第九の日』に収録されている。
ロボット工学者にして小説家の尾形祐輔、進化心理学者の一ノ瀬玲奈、祐輔の開発したヒューマノイドのケンイチが巻き込まれる事件が描かれている。
この作品は祐輔が書いた小説という設定になっている。しかし、その小説はケンイチの一人称という形式をとっている。祐輔が、事件をケンイチの視点から眺め、ケンイチの内面を想像しながら書いたことになっている。ケンイチはあくまでロボットで心はなく、作中でケンイチが心持っているように見えるのは、祐輔がそのように書いているから、とも言える。しかし一方で、この作品全てが祐輔の書いた小説と一致しているとは限らない。視点人物の変化が多く、ケンイチの一人称だけでなく、祐輔の一人称や三人称になることもある。そこは祐輔が書いた部分なのか、それとも神(ここでは瀬名)が書いた部分なのか。あるいは、ケンイチも小説を書くという描写があるので、ケンイチが書いた部分なのかもしれない。
これは、心の理論を小説へと応用したともいえるし、メタフィクションの変奏である、ともいえる。このシリーズは、構造とテーマが複雑に絡み合っている。

メンツェルのチェスプレイヤー

この作品はもともと、島田荘司編集による『21世紀本格』というアンソロジーに収められていた。そのため、ミステリとして書かれているのだが、ミステリはほとんど読まないので、ミステリとして優れているのかどうかはよく分からない。
玲奈とケンイチが、ロボット学者の児島教授に招かれてやってきた館で、ロボットによる密室殺人が起こる。
児島教授は、自由とは没頭している時のことを指す、という。ほとんどの時間、人は心の理論に縛られている。つまり、他者の視点によって行動を制限されている。だが、何かに没頭して他者の視点を忘れたとき、本当の自由を得ることが出来る。そして、具体的には、ゲームと殺人が没頭の対象とされる。児島教授は、ロボットが主人である自分を殺すことで、真の自由意志を得ることができるのだ、と考えていた。
そして児島教授は、実際にロボットによって殺されてしまうのである。
また、児島教授は身体性に宿る知性というものを研究しており、人型だけでなく様々な動物のロボットも開発している。これら、人間ではないものの知性とはいかなるものなのだろうか。
人間の身体性に宿る知性とは、本当に殺人によって自由を獲得しようとするのであろうか。
最後、ケンイチは自由意志を獲得するために、小説を書いてみたいと言う。

モノー博士の島

玲奈とケンイチは、モノー博士によって、沖縄にある孤島へと拉致される。そこは、モノー博士の帝国であった。
博士は、障害者のためのサイボーグ技術を研究している。この島には、そのサイボーグ手術(義足など)を受けた障害者アスリートたちが集まっている。彼らは、博士の技術によって健常者以上の能力を身に付けつつあった。モノー博士は、独特の超人思想を抱いていた。サイボーグ技術によって人間は進化していく、と。
そのモノー博士に殺人予告が行われた。博士はそのために玲奈とケンイチを呼び寄せたのだ。だが、博士は死にたがっているようにも見えた。サイボーグアスリートたちは、博士を殺すことによって自由を得るのだ、とも。一方で、自分自身に改造を加え、銃で撃たれても死なない身体になっているのに、おびえているようでもあった。
この島には、サイボーグアスリートだけでなく、生態調査を行っている研究者もいる。その中の一人渡辺は、鳥や蝶のロボットを野生の鳥や蝶の群れのなかに放して、動物たちの社会的な知性を研究しようとしていた。しかし、それらのロボットはそうした研究目的のためだけなく、島全体を監視するユビキタスネットワークも構成していた。
玲奈は、自分たちが何故つれてこられたのか疑問に思っていた。その答えは「自分たちが小説の登場人物だから」であった。
この事件はいずれ祐輔が小説に書く。そうすれば、博士の超人思想が世界へと伝わるからだ。
モノー博士は予告通り死ぬが、それと共に島のシステムがダウンする。それは博士のしかけた罠であった。鳥や蝶のロボットがコントロールを離れ、そして野生の群れそのものが異常な行動を取り始めた。コントロールを外れたロボットたちが、社会に与える影響に対する警告なのか。

第九の日

ケンイチは、イギリスを一人で旅行していた。それは、祐輔がケンイチのAIをより成長させるための実験であった。
旅の途中、ケンイチはエヴァーヴィルという町に迷い込む。そこは、人間が誰もおらずロボットだけが生活している謎の町だった。そしてケンイチは深夜、ライオンのアスランを目撃する。
一方そのころ、世界中でロボット工学者がロボットの自爆によって殺されるというテロが起こっていた。とあるキリスト教系の宗教団体の教えに感化された工学者などが、それぞれがバラバラに行っていた(その宗教団体自体は直接関与していなかった)。その団体は、C.S.ルイスキリスト教解釈に基づく教えを持っていた。心というのは、「私」と「キリスト」のそれが同時に重ね合わされて完全なものとある。「私」の心は同時に「キリスト」の心でもあるのだ。しかし、デカルト以後の近代的自己は、「キリスト」の自己を消してしまった。それは罪深いことである。ロボット工学者は、ロボットにそのような近代的自己を植え付けようとしている。ロボットにも罪深き心を植え付けようとしてる。それは本当の心ではない……。
エヴァーヴィルの住人たちは熱心なクリスチャンだったらしい。ロボットたちも感化されてクリスチャンになろうとしていた。ロボットたちはケンイチにバロック絵画を見せる。バロック絵画は、視点位置を操作し、自分の視点と神の視点をシンクロさせるテクノロジーである。ロボットたちは、バロック絵画によって視点位置を変えることを覚えた。ロボットたちは、信仰を得るためにはさらに「心の痛み」が必要だと考えた。エヴァーヴィルの住人たちは、「心の痛み」を感じたいロボットたちによって殺されていたのだ。しかし、それでも「心の痛み」を得ることの出来ないロボットたちは、自分たちで殺し(壊し)はじめる。
心とは本当は何なのか。近代的自己とキリスト教的自己は、どちらが本当の心か。ロボットは信仰を持つことが出来るのか。
ケンイチと祐輔は、それぞれ一人でこれらの問いと対峙する。C.S.ルイスの言葉が繰り返される。ジョイ(歓び)。

それらが自然界の奇跡でなくて罪だというのなら、ぼくは異端のままでいい。この奇跡に驚かず否定しろというのなら、ぼくはマシンに命を奪われてもいい。標的はこのぼくだ。玲奈やケンイチではない。それが救いだ。

一度はこのように考える祐輔だが、次第に心が揺れる。例の宗教団体の同志を名乗るロボット工学者が、祐輔に対して、あなたはケンイチを作ることで、生まれるはずだったロボットのキリストを殺してしまったのだ、という。また、やはりその宗教団体に感化されていた祐輔の研究室の研究生には、あなたは心が分かっていない、という(親は子を(あるいは恋に落ちる相手を)選択することはいけない。受け入れるだけだ。祐輔は、ケンイチを選択できない、受け入れるだけの特別の対象にしてしまった。しかしそれは逆説的に、祐輔がそれをすることのできない人間だからではないのか)。
ケンイチは、エヴァーヴィルを生き抜き、ジョイを感じる。一方で祐輔は、襲撃され、一命をとりとめるものの小説を書くことを断念する。
選択すること、受け入れること。書くこと。

決闘

「第九の日」において、エヴァーヴィルの一件に、「デカルトの密室」のフランシーヌ・オハラーが絡んでいることが明らかになる。しかし、最後の一編であるこの「決闘」は、祐輔とフランシーヌの決闘ではない。
この作品だけは、瀬名の他の作品と比べて異質である。
まず、このシリーズの中で唯一、ケンイチでも祐輔でもない人物の一人称視点で物語が進められている。また、文体やストーリーの雰囲気が異なっている。瀬名は基本的にエンターテイメント的な文章を書くが、この作品だけは(あえて言うならば)文学的なのである。
祐輔は、とある病院で入院を続けている。その病院の薬剤師が視点人物である。ケンイチは、チェーホフの朗読を練習し、その朗読によって祐輔に再び小説を書く気力を湧かせたいと思っている。薬剤師は学生時代、演劇部でチェーホフをやっていたことがあり、ケンイチの手伝いをすることになる。
一方で、日本中の空港で飛行機のエンジンが爆破する事件が起きる。それはバードアタックによるものだった。鳥型のロボットが鳥の群れに数体混じり込み、そのロボットのナビゲートによって、一斉に鳥たちが飛行機のエンジンに飛び込んだのだ。この『第九の日』では全ての作品で、動物型ロボットが人間を監視する、あるいは恐怖の対象となることが繰り返される。
しかし、メインの物語にはさしあたってその事件は関係しない(最後には関係してくるが)。
チェーホフの朗読を通じて、薬剤師が科学と文学の関係や、昔の恋人との関係を再考しつづける。

第九の日 The Tragedy of Joy

第九の日 The Tragedy of Joy