フィクションにとって重要なのは、世界か表現か

「言葉は可能世界を創るか?」(三浦俊彦インタビュー)
この中で、テキストを解釈する上での3つの立場が出てくる。すなわち、ニヒリズム相対主義、リアリズム。
ここで出されるのは「三四郎の祖母の血液型は何型か?」というもの。
血液型はどれか一つに決定されると考えるのがリアリズム。いずれかであると考えるのが相対主義。そもそもテクストに書かれていないので血液型なんてないと考えるのがニヒリズム
ニヒリズムに分類されたら、当の本人はもしかしたら嫌がるかもしれないけれど、中原昌也の作品はそういう作品だと思う。
中原が描くテクストの中には、実在する世界はない。ただ、ひたすら言葉(表象)があるだけ。言葉と言葉の関係が読みどころであって、その言葉によって何が表現されているか(物語や世界)を読もうとしてもうまくいかない。
いわゆるアートの世界も同じようなことが言えるはず。
当初は、何が描かれているか、が問題だったけれど、次第に、どのように描かれているか、ということが問題になっていく。現代アートの類。
ベケットも後者で。何か内容やテーマがあってそれを言葉によって書いたのではなくて、むしろ言葉・表現、ただそれだけがあった。*1


今は、メディアミックス的な時代で、一つの物語やら世界やらを表現するにも、様々な方法がある。
小説、映画、マンガ、ゲームが現在の主だった物語メディアだろうか。
で、小説批評でも映画評論でもマンガ表現論でもいいのだけど、そういう各メディアに特化して論じようとすると、表現(方法論・ナラティブ)について語ることになる。
例えば、小説であれば言葉の使い方、映画であれば撮影方法、マンガであれば描線といった感じで。
今、映画やマンガについての授業を受けたり、あるいは本を読んだりしていると、大体そんな感じだ。


一方で、斎藤環のいう「リアリティ的リアリズム」
フィクションという自律したリアリティ、というのがあるのではないか、という考えもある(要するに東浩紀)。
小説や映画やマンガやゲームに描かれている世界が、あたかも実在しているのではないか、あるいは実在している、と思うことの不思議さ。
可能世界とか平行世界とか言ってもいいけど、フィクションという別の世界の自律を信じる感覚(三浦俊彦の言葉でいうなら解釈的リアリズム)。


何が言いたいのか、分からなくてなってきたが。
で、結局この二つの関係とは一体何なのか?
テヅカ・イズ・デッド』はまだ読んでいないのだけど、「ユリイカ」1月号での夏目房之介宮本大人伊藤剛鼎談で言われていた「フレームの不確定性」というのが、もしかするとヒントになるかのかもしれない。


追記(10/15)
ちょっと、自分で書いた4年前の文章を読んでみると、似たような話を書いていた。
大体自分の中の基本アイデアみたいなのは、出尽くしてるのかな、とか思ったり。
で、4年前の自分は、「メタフィクション書け」みたいな結論を出してる。

*1:何故中原昌也ベケットがここで出てきたかというのは、前日のエントリ参照