戸田山和久『知識の哲学』

先日、友人宅に遊びに行ったとき、戸田山和久の本を見つけ手に取る。
なんか授業で使ったらしいが、友人はあんまり興味をひかれなかった様子。
冗談半分に「じゃあちょうだい」と言ったら、あっさり「いいよ」と言われたので、遠慮なく貰う。
そんなふうに、かなり偶然手に入った本なので、どんな本なのかもよく分からずに読み始めた。


一言に哲学、といっても色々なジャンルがあるが、その中でも「認識論」と呼ばれるジャンルに関する概説・哲学史である。
「認識論」とは何か、というと、「私たちは外界について何事かを知っているといえるのか」「いえるとすれば、それはどうしてか」という問いに関する議論のことである。
これは、ギリシア哲学からある、古くからある議論なのだけど、これが哲学の中心となるのは「近代哲学」以降となる。すなわち、デカルト以降だ。この本の中でも、デカルトとヒュームがそれぞれ項目を割り当てられて解説されている。
さて、デカルトが一体何をしようとしたか、というと、「どうしたら正しく知ることができるだろうか」ということだ。彼(並び彼の同時代人)は、今までの聖書中心の知識のあり方から抜け出して新しい知識のあり方を見つけ出そうとしていた。当時は、聖書に書いてあることが正しい知識であった。しかし、どうもそれは怪しいのではないかと思い始めた彼(ら)は、聖書には拠らない形で正しい知識を得ようと考えたのである。
近代哲学とは、聖書(教会)の世界観から抜け出そうという壮大なプロジェクトだったのである。
このプロジェクトは、哲学史の教科書を眺めると、カントやヘーゲルで完遂したことに一応なっている。
しかし、実際には、19世紀末から20世紀初頭のウィーンにおける論理実証主義へとこのプロジェクトは受け継がれる。
20世紀初頭、というのは、物理学が華々しい成果を上げ始めた矢先であり、数学と物理学によって世界のことは全て説明できる、という考えが世を席巻していた。論理実証主義は、一体どのような手続きがあれば、数学や物理学で世界を全て説明することができるか、を考えた。
デカルトやその同時代人は、聖書の代わりに自然科学を成立させつつ、その自然科学が何故正しいかを考え続けた。論理実証主義は、その続きを担ったのだ。
この「認識論」というのは、普遍的な真理へと到る道筋とはどういうものかを考える、ということを目標としている。というわけで、実に普遍的なもののように見えるのが、実はそうではない。その多くが、実は近代科学との関係から生まれてきたもの、といえる。

第Ⅰ部

まず、主な認識論の立場が紹介される。
大きく分けて、内在主義、外在主義があり、内在主義の中には信念論的な立場と非信念論的な立場がある。またそれとは別に、古典的基礎付け主義と穏健な基礎付け主義というのがある。
心の中で何かを信じていることを「信念」と呼ぶ。
この信念の内容が真であり、かつその内容が正当化されているとき、この信念を「知識」と呼ぶ、ことにしておく。
正当化、というのは一体どういうことか、ということについて、それはその信念をどのようにして抱いたか、ということだ。ある信念は、他の信念からもたらされている。例えば「その箱の中にはシュークリームが入っている」という信念は「箱に書いてあるのはお菓子屋さんのマークである」「お母さんは今朝、シュークリームを買ってくると言っていた」といった信念によって導かれた、というように。
さて、これをどんどん続けていった先に、最も基礎的な信念があるのではないか、と考えるのが基礎付け主義である。
信念は信念によってもたらされる、と考えるのが信念論的な立場であり、それ以外の何かからももたらされる、というのが非信念論的な立場である。
さらに、信念を正当化するものは、必ず人の心の中にあると考えるのが内在主義であり、必ずしも人の心の中にある必要はない、むしろ心の外にこそ信念を正当化する基礎があると考えるのが外在主義である。
最後に、外在主義者であるドレツキによる知識の定義が紹介されて、第Ⅰ部は終わる。
ドレツキは知識に対して「情報」という概念を加える。
彼によれば、自然界では「情報」というものが絶え間なく流れており、その「情報」によって「出来事」が引き起こされる。そして、「情報」が人の心の中に入ってきて信念となったとき、それは「知識」となる。
このドレツキの定義によれば、「知識」に「正当化」という手続きは必要なくなる。

第Ⅱ部

続いて、「認識論」というのが、そもそも何のために行われているのか、ということで「懐疑論」とそれに対する反論が紹介される。
「認識論」というのは、確かに「人は如何にして知ることができるのか」を探る議論なのだが、そうした議論が起こる背景には「懐疑論」への反駁という動機がある。
懐疑論」とは、「人が知ることができることはほとんどないのではないか」というものだ。
代表的なものとしては、例えばヒュームがある。他に、「培養槽の中の脳」と「疑いの水増し」などが挙げられる。
「培養槽の中の脳」というのは、要するに、実は自分には脳しかなくて、今知覚しているものは全てその脳につなげられた電極からの刺激によるものだ、という話。
「疑いの水増し」は、ある知識が間違っていた経験を持ってきて、他の知識も間違っているのではないか、と疑いを広げていくこと。
ヒュームの懐疑論は、かなり限定された懐疑論で、「培養槽の中の脳」などとは違って、直接見たものを知っていることは認める。しかし、そこから「因果関係」などといった直接知覚できないことまで知っている、ということは認めない、というものである。
さて、これに対する反論の代表例として登場してくるのが、デカルトである。ただし、筆者はこれを間違った反駁の例とする。
デカルトは、まさに基礎付け主義者であり、あらゆる知識の基礎としてcogitoと神を設定する。まあコギトに関しては、知識の基礎となると認めてもいいのだけど、神となってくると途端に怪しくなってくる。
そればかりではない。デカルトは、ありとあらゆるものを疑い、知識の基礎とはなりそうもないものを一つずつ消していった末にcogitoへとたどり着いた。さて、問題はこのcogitoから再び他の知識を取り戻していくことにある。このとき、コギト以外にも、基礎づけられた疑いようのない概念(例えば神だったり、その神を持ってくるための因果だったり)をもってこないと、戻すのが不可能なのである。じゃあそれは一体どこから来るのかというと、デカルトは上手く説明できていない。
というわけで、デカルトでは上手く懐疑論には反駁できそうにないので、別の方法で反駁する必要が出てきた。ここで登場するのが、ノージックである。
ノージックは、懐疑論の論理の進め方に対して反駁を行う。
彼は、可能世界意味論という道具を使って、知識を再定義する。
この定義を使うと、自分が「培養槽の中の脳かもしれない」という疑いを消すことはできないが、だからといって外界についてのほとんどの知識も疑わしい、ということにはならないと論証を進める。
可能世界を使った知識の定義として、「現実世界とは一つだけ条件の異なる可能世界全てでPが真となる時に「Pである」という信念を持っている」というものがある。
つまり、自分が培養槽の中の脳であろうと本当に肉体と外界があろうと、Pが真であるならばPを知っているといってもよいことになる。
ただし、このノージックの論法も批判を受けており、完全に懐疑論を反駁するものとはなっていない。

第Ⅲ部

この本の読みどころ、肝がここである。
「認識論」というものを従来とは全く違うものへと作り替えていく試みである。
カルナップという論理実証主義者がいる。彼は、あらゆる知識の基礎付けを試みた。今までの哲学者が誰もできなかったことであるが、彼は論理学と集合論の知見を使ってこの試みに手をつけた。
結果から言えば、この試みの目的は達成されなかった。
そしてこの試みは、クワインによって批判される。
カルナップは、あらゆる知識をより基礎的な知識に翻訳・還元しようとした。しかし、クワインはそれは不可能だという。
カルナップの考えた翻訳・還元とは、大雑把に言えば理論を感覚へと戻すことだった。この理論と感覚はつながらない、と最初に看破したのはヒュームであるが、クワインも結論としては同じ事を言う。理論というのは他の理論と互いに依存しながら成立している。そのため、理論を個別に翻訳・還元することは不可能なのである。
こうした翻訳・還元が不可能となる、ということはどういうことなのか。あらゆる知識の基礎付けというのが不可能である、ということでもある。
クワインは、そこで「自然化された認識論」というものを提案する。
そもそも人が何かを「知る」ときに、それをいちいち翻訳・還元して理解しているわけではない。人はどのようにして何事かを「知っ」ているのか。これは、哲学の問いではなく、心理学の問いである。
クワインは、「認識論」という哲学がやっている問題は、実は心理学の問題なのではないか、と提起するのである。
心理学というのは、自然科学の一分野である。
そもそも「認識論」とは、「自然科学はどうして正しいのか」という問いに答えるためにスタートした分野であるのにもかかわらず、それが自然科学の中の問題だというのが「自然化された認識論」である。
科学と哲学を分離し、哲学を科学の上位に置こうとする考え方がここでは批判されているのだ。科学と哲学というのは、同じ問題に対して共にアプローチしていくのであって、どちらがどちらより勝っているというものではない。
しかし、では何故科学と哲学は分けて考えられているのか。
それは科学が「記述的」であるのに対して、哲学が「規範的」であると考えられているからだ。「規範的」とは「〜べき」ということである。
「人は知識をこのようにして獲得する」というのが「記述的」
「人は知識をこのようにして獲得すべき」というのが「規範的」
前者は、実際に乳幼児がどのように知識を獲得していくかを調べるが、後者は、ずっと上に書かれてきたように、例えば何らかの基礎を探し出そうとするのである。
さて、「規範的」であるということには、何らかの目標があるからいえることである。つまり「〜するため」という目標があるから「〜すべき」というのである。
では、「認識論」の目標とは何なのか。
それは真理に到ることである。
では、何故それが目標として設定されたのか。真理には何らかの価値があるのだろうか。
真理(真なる概念)に到達することは、生存競争に有利だったのではないか、という仮説が出されるが、実際には真なる概念ではなく偽なる概念に到達していた方が有利となる事例もあるため、この仮説はよろしくない。
ところで、「真なる」とはそもそも一体どういうことなのだろうか。
これは「意味論」と呼ばれるジャンルの話題である。「意味論」とは、ある文に対して真偽を如何に判断するか、というものである。
何らかの文があったとして、その命題に真偽を与える関数(=解釈関数)というものがあるとする。この解釈関数に文を放り込むと、真か偽か判定してくれるわけだ。しかし、この解釈関数というのはどうも部分的かつ恣意的である。
解釈関数が扱える文には限りがある。また、解釈関数は色々なパターンを作ることが可能で、そのどれを選べばいいのか選ぶことができない。
さらには、この解釈関数は、人の心の中にあるもの(表象)は統語論的構造をもつ文であることを前提としているが、コネクショニズムという認知科学の主張がもし正しいのであれば、表象はそのような構造を持っていない。
コネクショニズムを唱えるチャーチランドは、人間の脳は真理を求めるために発達したのではない、と主張する。
著者は、認識論の自然化、だけでなく、社会化も主張する。
そもそも認識論は、知識は個人の中にある、ということを前提としてきた。
しかし、知識は個人の中だけで成立するものではない。他の人の知識に大きく依存しているし、また社会や環境といったものにも依存している。
そうではなく、集団が知っている、ということもありうるのではないか。
「aはpを知っている。bは、aがpを知っていることとp→mを知っている。cは、bがmを知っていることとm→nを知っている。dは、cがnを知っていることとn→oを知っている。eは、dがoを知っていることを知っている」
さて、oを知っているのは誰か。dとeが知っている、とも言えるが、このa〜eのグループ全体が知っている、とも言えるのではないか。
さらにさらに、知識というのは、人間の心の中にあるものではなく、例えば本の中に書かれていることもある。そうしたものの中には、信念として実現されないものもあるのではないか。

その他

各章末尾に、練習問題がついているのだが、これはパスした。
難問ばっかりで……。
あと、戸田山和久はやけ高橋留美子が好き。「あたる」「友引高校」「五代くん」「響子さん」「かごめ」「桔梗」が例文中に出てきた。

感想

真理、という概念は、実は結構ローカルな概念に過ぎないのかもしれない、というのはニーチェポストモダニズムが散々いってきたことである。
認識論、というか分析哲学もまた、それとほぼ同様の結論へと到達したわけだが、それはいわゆる大陸系の哲学(つまりニーチェとかポストモダニズム)と比べると遅い。
だが、そこへと到る道筋は全く違う。
大陸系の哲学というのは、どうも科学と折り合いが悪い。
しかし、哲学にも科学にも興味のある自分としては、この科学と哲学との距離というのはなんとももどかしいものだった。
そして、そもそも哲学と科学の関係とは一体何なのだろうか、ということもあった。哲学は科学をローカルな体系と捉える(そしてそもそも哲学だってローカルな体系であろう)けれど、そうなってくると哲学するときに科学の知見を持ってくるのは居心地が悪いような感じがしてくる。
というわけで、この認識論の自然化は、哲学と科学を架橋するものとして、とても快いものだった(それでもこれはあくまでも、英米分析哲学と科学の架橋であって、大陸系哲学と架橋されたわけではないんだけど)。
自然科学と一緒になった哲学の方が、絶対面白いに決まっている。
自然科学がローカルな知の体系であるということは哲学の側から示されるし、また哲学もローカルな知の体系にすぎないということが科学の側から示される。だが、だからといって、哲学や自然科学に価値がないわけではない。じゃあその価値は何か、と問われても、答えられないのだが。
とにかく、実はローカルな体系に過ぎないという自覚を持つことで、今まで抱いていた大目標は滑り落ちてしまうかもしれないが、それ以上に面白くて重要な知見が手に入ってくる公算の方が大きいのだ。これは、「meta」な知から「inter」な知へ、ということなのかもしれないなあ。

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)

知識の哲学 (哲学教科書シリーズ)