小説トリッパー秋号

普段は立ち読み(もしくは図書館読み)ですましている雑誌なのだが、何故か買ってしまった。
小特集として中原昌也があったから、だと思う。
正直、それ以外に何で買ったのかが自分でもよく分からない。
本当は、パース特集をやってた「大航海」とか欲しかったんだけど、高いからやめた。
全体的な感想として、立ち読みか寝っ転がって読むのにはまあよい、って感じ。
文章とかが結構テキトーな感じがした。

高橋源一郎インタビュー

歴史というのはフィクションである。
どういうことかといえば、無数の出来事をある特定の文脈に沿ったものを切り取っているものだから。
文脈は今はもうない。文学史もない。

橋本治インタビュー

海難記(仲俣暁生のブログ)で言及されてた。
「批評とは自分を捌くものであり、小説とは他人を表現するもの」というのは、上のブログで見たときは、「なるほど、確かにそういうとこあるなあ」と納得した。
高橋インタビューもだけど、どうも構成でぶつぶつと切られていて、誌面で見ると、この部分は前後から切れててよくわからない。
内容は、純文学と大衆小説の違いについて。
「(純)文学⊂(大衆)小説」みたいな図式。だから、橋本としては文学はなくなってしまっても構わない。そういうのは小説の中から出てくるだろうから。でも、三島は自分の本職が純文学であることに拘った。
近代化したとき、「どう生きるか」という問題を考えてもいいようになった。そういうことを考えたい人がまあ何人かいて、それは文学の導入によって許された。だから、そういうこと考えたい人は文学を始めた。で、そのうち「どう生きるか」についてはよくわからないけど、「どう生きるか」というのをどう考えるか、というのは決まってきてしまった。
三島というのは、そこに収まらなくなってしまって、自分では「どう生きるか」というのを考えて純文学をやってるつもろなのに、あんまり純文学とまわりから見られなくて悩んだ、ということらしい。

前田累評論

中原昌也『点滅……』の評論。
冒頭、違法駐車取り締まりの民間委託、風営法の取り締まり強化、敵基地攻撃論が批判の俎上にあげられる。
これらに共通することは何か。
他者の(あるいは自分の)意図を難なく補足できる、という考えから生まれている、ということ。
その一方で、中原の作品は、そのようなことは絶対にない。
それは、言葉という表象=代行制度への疑いとして現れる。
言葉はあるがままを写し取るのか、といえばそうではない。中原はそれへの疑いを書き続ける。
芥川賞選考委員もまた批判される。
論者は、受賞作自体には異論がないが、その選考理由を批判する。
「現代を描いているから」というのが主な選考理由だそうだが、それならば中原もまた現代を描いている、と論者は主張する。これでは、選者と感覚が一致したものしか選ばれないだろう云々。
芥川賞はともかく、感覚が一致する、共感する、ということばかりが最近は強調されすぎているのではないか(本屋大賞もまた然り)。
言葉に(小説に)、自分の感覚が本当に表象=代行されうるだろうか。
単に自分の読みたいものを読み込んでいるだけではないだろうか(先述の、「他者の意図を難なく補足」することは、自分を相手に読み込むことによって可能になっている)。
そして、『点滅……』の最後の三行は、疑いと希望を行き来するものとして語られ続ける。
語られることによって、「消費される」ではなく「読まれる」になると、先のインタビューで高橋は言っている。
鹿島田真希は15行程度しか言及されていないが、ちょっと読みたくなった。

インタビュー本屋大賞の真実

本屋大賞実行委員長に対するインタビュー。
どのような経緯で生まれたか、どのように行われているか、といった話。
本屋同士の横のつながりのために。

芥川賞選考当日ドキュメント

とにかく色んな人が集まってきてて、面白い。
阿部和重矢野優青山真治大森望渡部直己柳下毅一郎仲俣暁生豊崎由美鹿島田真希(電話)、島田雅彦(電話)、モブ・ノリオ(電話)、蓮實重彦(メール)
大森望はずっと2chmixiをチェックしていたらしい。
これは文藝春秋読んだときに思ったけど、池澤夏樹の「中原は映画的すぎる」というのがよく分からない。あと、山田詠美が言及なしだったのは悲しいなあ。芥川賞選考委員の中では、一番納得できる選評書く人なのに。
しかし、この中原昌也を巡るちょっとした熱気っていうのは、なんかすごい。

青山真治『焼土』

彼の小説は初めて読んだ。
小学校低学年くらいの男の子が、あり得ないくらい難しいこと言ってて、そこらへんが青山真治っぽいと思った。
あとは、特に感想ないけど、読みやすかった。

今野敏『TOKAGE』

今野敏は『慎治』だけ読んだことがある。あれは面白かった、色々とご都合主義的展開はあるけど。
で、こっちは今野敏の本業であるところの警察小説。
まだ第一回だから、なんともいえない。

中村文則エッセー

高校時代、太宰治を読みまくりいれこんでいた。ある時、書簡集を読んで、素の太宰は、イメージしてた太宰ほどかっこよくないなあ、と思った。
ニーチェって梅毒で頭が狂ったんだ、知らなかった。

信田さよ子共依存アディクションから韓流ドラマまで」

「あなたを幸せにします」というパターナリズム的な心性を持つ男とそれに共依存する女の話、として『冬のソナタ』を分析する。超つまんなくて読むのやめた。要するに、私は冬ソナが好きです、って何故か今更言ってるだけ。

大塚英志サブカルチャー/文学論」

立ち読みで読んでるときは気にならないけど、買ってちゃんと読んでみると、結構文、文章としてひどいなあと思った。
大塚も編集者もテキトーに処理してる記事なんじゃないかと思ったり。
それにしても、大塚は東浩紀のことが好きだ。

ここ何年かの「(アニメの)国策化」の流れに結局、正面からキレることができたのは東浩紀くらいで、まあ、あいつも友達いないタイプだから空気をわざわざ読むこともないのだと思う。

一番面白かった部分だから、わざわざ引用符でくくってやる。
ところで、斎藤環によると笠井潔は、大塚と斎藤の議論を「あっさり切り捨て」ている一方で、東浩紀の議論は「笠井が唯一評価」しているらしい。
みんな、東浩紀のことが本当に大好きなんだなぁ。
内容は、マンガやアニメの作り方、方法論はしっかりと言語化できるのだ、というもの。
それを、今年から始めた大学での講師の仕事、『ゲド戦記』、『ディズニー・アート』展の3つを絡めて展開している。
この主張自体は、ずっと昔からの大塚の主張だし、また何度でも繰り返し強調しても全く構わないものだと思う。
でも、それで『ゲド戦記』を引っ張りだしてくるのは、みんながけなしているから俺は褒める、みたいなものでしかなくて、まあ大塚だから別に全然構わないけどね。
それと、最後の一段落で「父殺しは今の日本では難しい」「『太陽』はその点よく描いてるな」とかさらっと書くだけで終わるのはよしてください。

斎藤環「震災と文学」

ここのところ、トリッパーで一番楽しく読んでいるのがこれで。しかし、今回が最終回。

虚構内におけるリアリティの自律を認めた時点で、リアリティ判断は根拠を失う。それはつまるところ「リアルに感じられるからリアリティがある」という同義反復に陥るだろう。いわば「リアリティ的リアリズム」とでも呼ぶほかはないものだ。
「リアリティ的リアリズム」が成立する状況下では、「すべては虚構である」という言葉が「すべては現実である」という言葉と等置されることになる。(中略)あらゆる「現実」は、われわれの制約の多い認識能力が生み出す認知的虚構に過ぎない。しかしまた、あらゆる「虚構」は、われわれの脳内に一定の「クオリア」を生ぜしめるという意味において器質的現実である。(中略)すべては虚構であるという意味において、すべては現実なのである。

これはもうずっと前から自分が考えていたことと全く同じで、しかしこのことをこれだけの長さですっきりまとまったのは大きい。「リアリティ的リアリズム」というのは使いにくい言葉だけど、とりあえず名前をつけておくことは大事だと思う。
で、震災と文学(あるいはアート)との話になる。
そこに「空間」というものを見出す。
心理学化する社会」とは、こころを可視化し空間化することである。
清涼院流水は、1200もの密室を作り上げた。
井上廣子というアーティストは、精神病院の窓の写真を撮った。
村上春樹の『神の子供たちはみな踊る」には、空間がモチーフとして使われている。
「何故私ではなくあなたなのか」という問いかけ。それは、例えば何故その精神病院の病室という空間を占めているのが、私ではなくあなたなのか、という問い。それは偶然にすぎない。しかし、それを必然と捉えるところにトラウマがある。
この問いは、空間を虚構化させる。あるいは複数化させる。

それは決して「現実逃避」ではなく、むしろいったん虚構空間を経ていくことでしか接近し得ない「現実」への回路、という意味においてだ。いまや私は、震災がこうした虚構空間の複数化、多重化を招いてしまった可能性を考えないわけにはいかない。

最後に、谷川流の「涼宮ハルヒ」シリーズと舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』を挙げる。
舞城の「祈り」は、実際に何か有効に働いているものではない。
しかしその無効性を知りながらも「祈」るのである。この「祈り」が複数の虚構空間を繋ぎ止める役割を果たしている。「ハルヒ」であれば、涼宮ハルヒの存在こそが「祈り」に相当するだろう。


小説 TRIPPER (トリッパー) 2006年 9/25号 [雑誌]

小説 TRIPPER (トリッパー) 2006年 9/25号 [雑誌]