『時をかける少女』

見てきました。
ホントは、誰かと一緒に行こうかと思ってたんですが、今日は男性1000円だったんで思わず見に行ってしまいました。


直球でベタな青春映画かつ満足いくエンターテイメント作品。
過不足ない範囲でまとまっている。


時間移動する話だけれども、ほんの数日間に限っているのが面白い。ずっと同じ日を行きつ戻りつしている。
だから、伏線めいた処理がなされているわけだけど、見ていて小気味がよい。
こういうのを作りたいなぁ、と思うが、自分はこういう処理の出来る頭ではないなぁ、とも思う。とはいえ、この作品自体はそれほどややっこしいものではない。よく練られたプロットだとは思うけど、どこかが特別に優れているわけではない。
プロットだけに限らず、この作品は全体的に優れていて、どこかが飛びぬけてすごいわけではない。
それゆえに、エンターテイメントとして非常に出来がよい。
タイムスリップものに関しては、造詣がないのでなんともいえないが、可もなく不可もなくといったところだと思う。タイムスリップならではのトリックとかが特に仕掛けられているわけではない。
だからこれは、まさに青春ものなのである。
どうも青春ものには弱いらしい、という自分の性質が最近分かってきたのだけど、やっぱりこれにもやられることはやられた(つまり涙腺刺激された)。
個人的な青春ものの定義は以下の通り。
いつまでも続くかのような恋と友情の中間のぐだぐだ状態→いつまでも続かないこと、決断しなければならないことに気づく主人公→決断(おおむね、恋愛関係へと移行しようとする)→しかし、それが成就することがない。
成就できないのが青春もののポイントだと思う。主人公が成就しないことを納得した上で、でも決断を下すんだよね。逆に成就しちゃうハルヒ(あるいはセカイ系?)は青春ものとはいえない。
ただ、これは個人的な好みだけど、世間に対してちょっとヒネてる『サマー/タイム/トラベラー』の方がより共感の度合いが深い。
仲良し3人組でキャッチボールしている放課後、というのは自分には想像しにくいし。この3人には上手く感情移入できない。
でも、主役の真琴が魅力的だ(どうでもいい話をすると、彼女の妹の方が萌えですが。だって、彼女は姉に対してツンデレですよw)。
とにかく表情豊かでよく走る。
前半部は、彼女の行動に目一杯笑わしてもらえる。彼女のそばにいたら、笑いが絶えないだろうなあと思える。
あと、基本的には全然違う声なんだけど、時々高山みなみっぽく聞こえることがある。男の子っぽい女の子、ということなんだけど、いわゆるボーイッシュともちょっと違う気もして、なかなか絶妙です。


さて、ストーリーとかキャラは、それほど語ることも多くないというか仕方がないので。
まず絵柄。
絵柄についてオタク的知識を持ち合わせていないので、ちょっと的外れなことを言ってしまうかもしれないが。
ジブリっぽい顔とIGっぽい顔とそのどちらでもない顔が出てくる。
別に絵柄が不安定というわけではなくて、そういうバランスで安定している感じ。
大きく口を開けるところなんかは、とてもジブリっぽいのだけど、顔をアップにするとIGっぽくなる。
ジブリやIGの絵というのは、「いわゆるアニメ絵」からちょっと距離をとるためのものだと思うのだけど、この作品はそういうふうに距離をとろうとしているようにも思えない。
押井守なんかは、リアルなアニメを作ろうとしたりするけれど、こっちはそういう作り方をしているわけではない。
走るシーンの動きは、とてもアニメっぽい。
なんか手足が細くとがっているような感じになっているのが、何か見覚えがあるのだけど、要はアニメっぽい*1
動きに関して言えば、走るシーンの迫力がなんといっても素晴らしい。
とにかくこの映画、真琴がよく走る。
「これどんな映画?」って言われて、まあ青春だのなんだのあるけど、「女の子が走る映画」って答えてもいいんじゃないか、と思う。
ブレーキの壊れた自転車で坂を下りてるシーンで、靴が吹き飛ぶところとかがとても迫力ある。
迫力あるシーンってのは、話の中でも重要なシーンだったりする。
走る、走る、時間を飛んで転がり込んでくる。
文字通り転がり込んでくるのだけど、これがフレーム的に見てもすごくいい。
タイムスリップして別の時間に入ってくるとき、その時間にいる人にとっても観客にとっても意外なところが真琴が現れる(これが可笑しいんだけど)。フレームの外から突然ごろごろと転がってくる。
マンガで時折、コマの枠線を使っている演出があるけれど、それに似ている。
別の時間から入ってくる、というのは、フレームの外から入ってくる、ということとして表現されているのだ。
つまり、時間移動というのは、世界の外であり、マンガであればコマの外であり、映画であればフレームの外で行われているわけだ。
時間移動というのは、ちょっと世界に対してメタな立ち位置になる空間を移動する、ということなのだろう。
ちょっと驚いたことに、真琴はカメラ目線をすることがある。
どういうときにカメラ目線になるかというと、タイムスリップで何かしようとして失敗した時である。「なんでうまくいかないんだろ」という困った顔をこちらへと向けてくるのだ。彼女のこの困惑を理解できる人間は、作品世界中には存在しない(和子さんっていう例外がいるが)。世界に対するメタな立ち位置とは観客のことでもある。彼女は、観客に自分の困惑を向けてくる。
さて、以前読んだ評論に、タイムスリップものがどうして成立するか書いてあるものがあった。
それは観客が存在しているから、というものだ。
タイムスリップものは、時間が不可逆ではなくなるというストーリーであるが、時間がもし文字通り逆転したならば全てなかったことになるはずで、タイムスリップなど成立しない。前後した時間軸を、不可逆で直線的な時間軸の上に観客が配列することで成立する。
真琴も同じだ。
例えば彼女は、カラオケ1時間を何度も何度も繰り返す。もし文字通り時間が繰り返していたとしたら、何度繰り返したとしても彼女はカラオケを1時間しかすることができない。しかし、彼女はその繰り返す時間を、不可逆で直線的な時間軸の上に配列するので、10回繰り返せば10時間カラオケをしたことになる。
つまり、彼女自身は一切時間移動をしていないのだ。観客もまた時間移動しない。だからこそ、時間移動は成立する。
言い直せば、真琴と観客は、作品中の世界の時間軸とは異なる時間軸を生きているのである。
(これは記憶があるから、と言い直せると思う。以前そういうことを書いた)
それゆえに真琴は、あたかもフレームを出入りするかのような動きをするし、カメラ目線をするのである。
ところでフレームに関連して、この作品は一箇所不可解なところがあった。
ある女の子3人組が雑誌の星占いを読んでいる。そして憧れの先輩を見つけて走り寄るシーンである。
最初画面は、星占いのページが大写しになっている。先輩を見つけ、そのページが画面の下へと消える。すると、画面奥右手からその3人組がフレームインしてくるのだ。本来なら、中央手前から入ってこなければならないはずではないのか。
もし理解できた人がいたら教えて欲しい。
とにかく、画面・フレームの作り方、演出というのはよかった。
タイムスリップと演出が絡み合っている、というのは面白い。
引きや固定のカメラワークが多くて、それも特徴的だ。


その他
主人公の演技に関しては、ビミョーなところもあったと思う。
高校時代に放送局をやっていた関係で、よく高校生の作るドラマを見聞きしていたのだが、そういう演技に似ているところがある。
高校生の作るドラマの役者だとして聞けば、すごく上手い部類に入るのだけど。
もしかしたら脚本との関係もあるかもしれない。
高校生レベルといいたいわけではなくて、ベクトルが近い、という感じ。


その他2
映画を見終わった後、本屋へ行った。駅ビルに入っている大きめな本屋である。
ふと探してみたら、『時をかける少女』の原作が置いておらず、取寄扱いとなっていた。
これはたまたま偶然売り切れてしまったところに居合わせてしまっただけなのかもしれないが、それにしてもあんまりといえばあんまりである。
ゲド戦記日本沈没ブレイブストーリーの大々的な扱いとは比べ物にならない。
別に、あんなに盛り上げてもらわなくてもいいけど、映画公開中に本屋が原作を切らしている、というのはどうかな、と。
映画自体は、上々の客の入りだったように思う。
しかし、客層を見てみると、中高生男子のグループ、中高生女子のグループ、おっさん、である。男子は見るからにオタクっぽい感じ(自分も他人のことは言えない)だし、まあ多分女子も。1人で見にくるおっさんは言うに及ばず、である。
でもこの作品、もっと広い層が見ても十分視聴に耐えうると思うわけで、なんだかもったいない気がする。
というか、まずプロモーションが不十分で、かつターゲットが不明瞭な気がするのだ。
前述したが、絵柄がオタク向けではないのだが、一方で一般向け(?)という感じもしない。
プロの声優をほとんと使っていないが、かといってジブリのように大物俳優を使っているわけではない。
(そういう意味で似ているのは『茄子アンダルシアの夏』かな。逆にあれは、声優が大泉洋とかだったから、非オタと思われるカップルが多くて、わかったのかな?っていう感じだったけど)
(オタクがどういう作品を好むかここで軽々しく言ってしまうのはアレだけど)この作品ってオタク受けするようなものには見えなかった。
ある意味、実にベタな作品だから。
ケレンがあったり、メタだったり、萌えだったり、ガジェットがあったりするわけではない。
実に真っ当な大衆娯楽作品だ。
でも、非オタに対してプロモーションなりされているか、というとそういう雰囲気はない。
主にネットでやけに盛り上がっているけれど、例えば監督の細田守だったり、上映館の少なさなどがまずは注目されていたと思える。
そんなので注目するのはオタクであって、非オタにとっては全く気も惹かれないであろう。
あとは、ゲドがひどいらしいという話とともに、時かけはいいよ、という風に広まっていったけど。
「ネット住民=オタク=マイナーなものが好きな人たち」、というのはあまりに短絡的な偏見ではあるけれど、その偏見のもとから見ると、時かけがネットで絶賛なのは不思議。


何度も繰り返すけど、これは実によく出来た、エンターテイメント、大衆娯楽作品。
どこをとっても優れている一方で、どこか一部が特別に優れている、ということはない。
誤解を恐れず言えば、大量生産できるクオリティ、ではないかと思う(職人的なコアな長所があるわけではない、ということ)。
このレベルのエンターテイメントが、それこそ大衆向けエンターテイメントには厳しいはずのネット住民=オタクから絶賛されてしまう、というのは、エンターテイメント映画のレベル落ちが進んでいるのか、と思ってしまう。


「夏休み、なんか面白い映画ないかなぁ」と思っている人には、強く推す。

*1:080719追記。ビバップエドの走り方とかと似てる