[政治・社会][文化論]ネットと既存メディアの現況に関する考察?

昨日、途中まで書いておいて結局消したことについて。


情報社会論めいた話。
・既存メディア受容者とネット受容者との間には乖離があるのではないか?
・その乖離は、情報フィルタリング・秩序化装置の違いによるものである。
・その乖離は、触れている情報が違うというだけでなく、異なる装置の利用者の存在すらも隠す。
・情報フィルタリング・秩序化装置の違いとは、価値観の違いでもある。
・マスメディアとは、マスに対するメディアではなく、マスを作るメディアである。
・メディアもしくは情報フィルタリング・秩序化装置が複数化ある以上、マスは形成されない、もしくはマスもまた複数化される。
・郵便的不安、とはそのような状況に対してつけられた名前である。送り手の誤配に対する不安だけでなく、受け手側の不安も含む。
・自分の受け取っている情報と、全く異なる情報を受け取っている人間がどこにいるのか、あるいはいるのかどうかすらよく分からない不安。
・帰属する集団の不透明化←マスメディアはマスを作る。つまり、情報を共有しているという感覚を作ることで、帰属している集団の存在をも感覚させる。
・蛸壺化。帰属意識、準拠意識は、細分化した集団ごとになる。
・情報フィルタリング・秩序化装置の違いとは、価値観の違いでもある。
アイデンティティ(というか行動や嗜好・志向)の外延化・可視化は、自分の帰属する集団や装置を示すためではないか。
・帰属する集団、装置とは、一意的ではなく恣意的であることが明らかになったため、自分の帰属する集団や利用する装置を明示しないと、郵便的不安に曝されてしまうから。
・それはそれで構わないとして、しかし何らかのある民意の形成が必要なとき、パブリックな空間は如何に作られるのか。集団ごとに、情報のフィルタリング・秩序化が異なっている以上、装置の異なる者同士でのコンセンサスを如何に得ればよいのか。そもそも、そのような異なる者の存在を可視化できるのか。
・従来、それを担っていたのはマスメディアであるが、現在では既にその位置を失っているように見える。既存メディアは、マスメディア、総合メディアであろうとし続けようとして、むしろコンテンツの質の低下を招いているのではないか。(というか、そもそも既存メディアがマスメディアであった時代は、装置の恣意性は明らかにされていなかった。故に既存メディアは、異なる装置を使う者の存在への意識がほとんどない)
・とはいうものの、コンテンツの作成にプロは不可欠である(ネット上のアマが作るコンテンツのレベルの高さは確かに目に見張るものがあるが、しかし第一次的なソースのほとんどは未だ既存メディアが作っている)。既存メディアは、今後専門化の道を進むしかないのではないか。(2011年問題との絡み)
・パブリックな空間の形成が、もはや既存メディアの編集によってなされるのではないとしたら、これからは例えばソーシャルブックマークアーキテクチャによってなされるのだろうか。


というような内容のことを書こうと思っていた。
だが、いかんせん長い上に、何というか書いていて全く楽しくなかった。
今後の社会について考える上で、あるいは自分のような中途半端な人間(「人文系ヘタレインテリ」*1の身の振り方を考える上で、わりと重要な話題だと思っている。
つまり、郵便的不安状況下において、蛸壺化した各コミュニティを横断する秩序を再構成すること。
しかし、何というかそんなことを考えていも、そこまで面白くないし、ましてや、現代の状況と絡めながらわかりやすい文章を作るのは、かなりしんどい。
話のネタとしては、哲学話より人も食いつきやすいかな、とかも思ったりするんだけど。

*1:稲葉振一郎の言葉。稲葉がどういう文脈で使っているのか知らないのだが、なんかちょうど自分のことを言われているような語感がした