本橋哲也『ポストコロニアリズム』

1学期の授業のテキストだった本。
フランツ・ファノンエドワード・サイード、ガヤトリ・スピヴァクを取り上げた、ポストコロニアリズムの入門書。

言葉

ポストコロニアリズムは、文学(認識)と政治(実践)を切り結ぼうとする試み、ではないか。
詳しくは知らないが、テクスト論とかポストモダニズムは後者をほとんと取り入れないようなイメージがある。
というか、後者を入れようとすると批判されてしまう、というか。
つまり、ある立場から見れば、ポストコロニアリズムはあまりにも政治的すぎるのだろう。
だけどあくまでも文学理論の一つであって、政治ではない。
(政治的な文学なのか、文学的な政治なのか、はよくわからないけど、多分前者だと思いたい)
よって、まずは言葉による認識を重視する。
人間は言葉を使わないと何事かを認識することはできない。
つまり言い換えれば、言葉によって何事かが「何事」として定位されるのである。
それ故に、ポストコロニアリズムは、言葉の使われ方を注視する。
誰が、何を、どのように認識した言葉であるのか。
人間は、言葉によってしか認識できないが、言葉によって認識されたものは認識されるものと必ずしもイコールとはならない。
本書では「食人種」が例示される。
ヨーロッパ人が、ネイティブアメリカンを、食人種として言葉にしたから、ネイティブアメリカンが食人種となったのであって、そもそもネイティブアメリカンが食人種だったわけではない。そして、もしかするとネイティブアメリカンからみると、ヨーロッパ人こそが食人種だったのかもしれない。

暴力

では、ポストコロニアリズムの政治(実践)面においては、何が重視されるか。
それは暴力である。
ファノンはアルジェリアの独立闘争に参加した。サイードも、一時期PLOのメンバーであった。
ポストコロニアリズムは暴力の中から生まれたのである。
その暴力の中には、もちろん植民者による暴力もあるが、被植民者による暴力もまた、ある。
ゲリラは、被害者でありかつ加害者である。
ファノンは、解放としての弱者の暴力を肯定する。同時に、その弱者の暴力が独立後強者の暴力となることも危惧した(アルジェリアでゲリラ殲滅にあたったフランス兵は、2次大戦ではレジスタンスとして解放闘争を戦っていた)。
許容される暴力とそうでない暴力があるとするのならば、それは何なのか。
例えば、授業では酒井隆史の著作やサイードの発言を参考に、「憎しみ」と「怒り」を区別した。「憎しみ」は人や集団へと向けられるが、「怒り」は制度や原因へと向けられる。

立ち位置

自らの立ち位置に自覚的になること。
あるいは、立ち位置を変えて物事を見てみること。
これがポストコロニアリズムという方法論なのだと思う。
違う立ち位置から言葉を使い直してみる。
そこから、サイードスピヴァクの戦略が見えてくる。

ハイブリッド

さらに言えば、新しい立ち位置を作ってしまうこともできるかもしれない。
ポストコロニアリズムというと、植民者と被植民者の対立かのように見えるかもしれないが、決してそうではない。
植民者と被植民者を繋ぐ試みでもある。
例えば、先ほどの「食人種」であれば、むしろネイティブアメリカンの側が積極的にそれを受け入れていくという運動がある。むろん比喩的な意味であるが、ネイティブアメリカンの文化・芸術がヨーロッパの文化・芸術を「食って」、新しい文化・芸術を創出するということ。
あるいは、ファノンは、アルジェリア独立運動において、ラジオでフランス語が流されたことに注目する。支配し服従させる言語であったフランス語を、独立のための言語へと作り替えていくこと。
植民者でも被植民者でもなく、加害者でも被害者でもなく、新しい立場になること。
これは、後述するが、植民者が被植民者を語ってしまうことを回避するために必要なのだ。
例えば、被害者に対して同情し哀れむことが被害者の立場に立つこと、といえるのか、という問題だ。

エグザイル

イードは、絶えず自分の居場所のなさを感じていた。
しかし、その居場所のなさに彼は居心地のよさを感じていた。
知識人はステークホルダーであってはならない、とするなら、まあ理想的な立ち位置なのかもしれない。
エグザイル、というのは、ポストコロニアリズムの立ち位置の戦略の一つとしてありうると思うが、無責任などとも言われかねない。
ただ、例えば、僕の場合、ナショナリティエスニシティも日本人であり、母語も日本語で、日本の文化圏にいる生粋の日本人であることは間違いないのだが、日本に対して強いクラス・アイデンティティがあるかというと疑問がないわけではない。
とてつもない経歴のサイードとは比べるべくもないが、流動的な、非固定的なポジショニングというのは理解できる気がする。あるいは、そういったポジショニングを戦略的にどう定位するか、というのは、前述のハイブリッドのこととも重なってくるかもしれない。

戦略的本質主義

スピヴァクの戦略はむしろ逆。
自分の立ち位置を徹底的に明確化する。
宮台のいう「ノーマライゼーションの地獄」とはちょっと違うが、似たようなところもあるかもしれない。
どういうことか。
彼女は、相対主義を半ば肯定し、半ば否定する。
ポストコロニアリズムというと、植民者と被植民者の(間にあると植民者の側から考えられた)優劣関係を解除するのだから、相対主義的である。ヨーロッパは特別な存在ではない、という相対主義
しかしそれが、マイナーな存在・弱者にも同様に適用されるとどうなるか。
平等とかノーマライゼーションとかは、弱者のための標語だが、それは容易に諸刃の刃となる。グローバリゼーションがよい例であるが。
本質主義というのは「本来〜とは〜な存在である」という考えだが、スピヴァクはこれを「戦略的」に使用する。
相対化されてしまうアイデンティティを相対化させないために。

証言・代弁

スピヴァクは、自分の立ち位置に徹底的に自覚的である。
彼女は、ベンガル出身であるが、裕福なインテリである。その立場が恵まれたものであることを自覚すること。そして、逆に恵まれているが故に理解できないことがあることに気付くこと(Unlearning)。
サバルタンという概念がある。簡単に言ってしまえば弱者のことである。
スピヴァクは、インドの下級カーストの女性に注目する。
彼女たちは、夫の死後殉死する。
この殉死をインド支配層の男性は勇気ある姿と表象し、ヨーロッパ人男性は犠牲者として表象する。
逆に、殉死しなかった女性を、前者は勇気の欠如した者、後者は自由意志によって決断した者と捉える。
だが、ここにはどちらにしろ、インド人女性の声はない。
証言や代弁とは、不可能なの行為なのかもしれない。
アガンベンも同様のことを言っていたはずだ。

ポストコロニアリズム (岩波新書)

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