ウェルズと黒沢清

1学期終了。
レポートがあと1本残ってますが、夏休み突入です。
今日は、近くのレンタルビデオショップが半額なので行ってきましたが、会員証の期限が5月に切れていて、最近全然ビデオ借りてなかったんだなぁ、と思いました。
確かに、引っ越してからビデオ借りるのは初めてだし。

市民ケーン

1941年、オーソン・ウェルズ作品。
白黒の洋画とかは滅多に見ないのですが、有名な作品はちゃんと見ておかないとね(^^;
メディア王ケーンの生涯を描いた作品。
パッケージに、時系列順ではない構成とか書いてあったので、実験映画ばりに順序を組み替えているのかと身構えて(?)いたが、さすがにそんなことはなかった。
(ちなみにパッケージに、時間の概念を壊したのは物理学ではアインシュタイン、文学ではプルーストジョイス、映画ではウェルズだ、と書いてあったわけで、そりゃあ身構える)
ただし、見事な構成であることは確か。
アウトラインからディティールへ。
映画は、ケーンの死から始まる。その死を受けて、彼の生涯をまとめたフィルムが作られる。
そのフィルムは、ケーンの公式な記録に残っている生涯。
フィルムを作った(新聞社かTV局?)編集部は、さらに彼の生涯を掘り下げるため関係者へのインタビューを始める。
様々な関係者から、少しずつ彼の生涯のディティールが浮かび上がってくる。
ケーンの生涯には、いくつかのセンセーションな出来事があるわけだが、その同じ出来事が別々の視点から取り上げられたりする。
しかし、いつまでも彼そのものには到達することができない。
最初がケーンの死から始まるのだから、ある程度予想できることだが、きっちりと閉じた円環構造で見事。
シーンが切り替わるときの効果が、いちいち良い。
例えば、
ライバル新聞社の有名記者たちが並んでいる「写真」のシーン→「実物」の写真撮影のシーン
つまり、その有名記者を全員引き抜いてしまったわけだけど、ズームと引きでそれが表現されてしまっている。
他にも色々な効果がある。
上述したズームと引きでってのも結構あるし、パッと切り替わるのもあるし、どれも効果的。
夫婦が倦怠期へと移行していくシーンだと
朝食における夫婦の会話で、夫と妻を交互に映しているうちに、少しずつ時間が経っている。会話自体は繋がっているように聞こえるんだけど、実際には次のセリフでは時間がとんでる。
ケーンは、晩年、ザナドゥという城を建ててそこで彫刻を収集している。
彼の晩年は、妻とは離婚し、事業は大恐慌で失敗し、散々なもので、このザナドゥという城がまたよい。
死後、ザナドゥの遺品が整理されるているのだが、高価な彫刻からガラクタまで雑然と並べられているところとか、最初と最後で出てくるザナドゥの外観とかがよい雰囲気を出している。
と色々書いたが、実はオチはちゃんと理解できなかった。
多分、ディティールをいくら重ねていっても真実には到達できない、ということなんだと思うが。

市民ケーン [DVD]

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ドッペルゲンガー

黒沢清2本目!
やっぱり、面白い。
ビデオじゃなくて劇場で見たい、と思った。
というのも、画面分割という粋なことをやったりしてるから。
黒沢映画は見終わった後、妙なテンションになる。その妙なテンションが残っているうちにレビューを書きたかったんだけど、残念ながら通り過ぎてしまった(^^;
2003年作品で、やはり役所広司主演(『CURE』以降の作品は大体主演が役所)。
さらに永作博美ユースケ・サンタマリア柄本明という、何とも言えない役者が並ぶ。
役所を含めこの4人、何考えてるのかよく分からない。
だからといって、狂人とかそういうわけではなく、ごくごく一般人でもある。
それが不気味であり、かつリアル。
宮台(また宮台かよ、しつこいなぁって思うかもしれないが、今の自分の頭は参照元が宮台しかない貧しい状況なので許して欲しい)は「日本映画では、悪人はたいてい悪人っぽい顔してる」と言っているのだが、その点この映画は誰が善人で誰が悪人なのかさっぱり分からない。
彼らはみな、当然、善人かつ悪人なわけ、普通の人たちがそうであるように。
そして、役所、永作、ユースケ、柄本って見事にそういう雰囲気を持っている。
さて、今回も物語としては、『CURE』の同じパターンではある。
「世界」に触れて「底が抜け」ちゃう系
ドッペルゲンガーというのは、見ると死んでしまうわけだが、この作品はそれを90度くらい変えている。
本人を不安定にさせる装置であるはずのドッペルゲンガーが、ここではむしろ本人を安定させる装置として働いている。
今ふと思いついたのは、解離。人格を分けることで、トラウマを回避しようとする機制。
分割が安定をもたらしている。
ということで、画面分割の意味もなんとく分かってくる。
最近出た授業によると、『アカルイミライ』で使った画面分割は、同じ車に同乗しているが運命を共にしていないこと、を表現しているらしい(まだ未見だが)。
本作は、『アカルイミライ』の一つ前の作品で、画面分割とかを黒沢が使い始めた作品であるらしい。
で、はっきりと、画面分割の表現意図が分かったわけではない。
個々のシーンでの表現意図は、正直全くわからない。
ただ、ドッペルゲンガーがいなくなった後、映画の後半では、画面分割は一切行われなくなる。
ドッペルゲンガーがいなくなるのだから、当然といえば当然なんだけど、それ以降、映画は混沌状況と化す。
もう少し、画面分割について見ると、最後に出てきた画面分割はとても面白いことをやっている。
役所が椅子に座ると、その映像がそっくり二つに分かれる。
片方が本物で、片方がドッペルゲンガーで、お互いに会話するシーンなのだが、2人は全く同じ場所に座っていることになっているのだ。しかし、画面分割されているので、あたかも2人いるように見える。
その会話の後、ドッペルゲンガーの方は殺害されることになる(この映画の中でのドッペルゲンガーは、生身の肉体を持っている)。
それ以来、ドッペルゲンガーは姿を消す。
だけど、しばらくたってから、役所(本物)が、いつも役所(ドッペルゲンガー)が吹いていた口笛を吹くシーンがあったりする。要するに一体化してたのだな、あのときに。
で、ドッペルゲンガーが消えた後は、役所とユースケと柄本(と永作)がしっちゃかめっちゃかを繰り広げる。
しっちゃかめっちゃかっていうのは、勿論暴力のことで、『CURE』で黒いシャツに着替えた後の役所状態。
しかも、東京(?)から新潟への移動中なので、ロードムービー(?)っぽい流れの中で暴力の応酬が続く。いや、暴力の応酬っていうとなんかくどく感じるが、あっさりとしてる。
そう、黒沢の描く暴力は、とてもあっさりしている。
この「あっさり」感が、しかし全体としては、「しっちゃかめっちゃか」感を高めている。
そして、その混沌(「世界」)を生き残った末にラストに至る。
そのラストで、漸く本当の意味でドッペルゲンガーが消える。
このレビュー、あらすじを書くのを忘れてしまったので、今更補足すると、役所は介護用のロボット、人工人体なるものを開発している。この人工人体が、また不気味。
そういえば、永作が初めて人工人体に触れたとき、笑いまくるシーンは、永作が「世界」に触れる準備というか最初の瞬間なんでしょう。
この人工人体は、本人の代わりに何でもやってくれるというもので、まさにこの作品中におけるドッペルゲンガーそのもの。
人工腕が動くときの、何とも言えない不気味さは、それを示唆していたのか、と。
ラストシーンの人工人体は本当に不気味。
しかし、このタイミングでPE'Zがかかる。もう完全にノックアウト。
『CURE』は、最初の殺人シーンでやけに軽い調子のBGMがかかっていて、のっけから引き込んでいくわけだが、この作品はそれはこのラスト。
PE'Zを選んでくるのが、本当に見事。
多分、見終わったとき妙なテンションになったのはPE'Zのせい。
『CURE』は後味がとても悪いのだが、この作品も同じような流れなのに後味はむしろ良い。これもPE'Zのおかげでしょう。

ドッペルゲンガー [DVD]

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