視点・視線

上のエントリでは「芸術とは驚き(新奇性)を生産すること」と言われていた。
ところで、去年、感性についての授業をとっていたことがあるのだが、その授業の大雑把な自分の理解は、感性とは「気付く能力」である、ということ。何に気付くのか、新しいもの、にである。
芸術が新奇性を生産するのであれば、感性とはその新奇性に気付くことなのではないだろうか。
「気付く」ことあるいは「見る」こと
それには、技術的な要因も強く働いているはずだ。
芸術史の授業というのは、絵画をプロジェクタで投影して行う(らしい)が、まだプロジェクタがなかったころには絵画の実物を見ることはなく、ただ言葉で講義されるだけだった。
このプロジェクタの導入は、新しいことを可能にした。
「拡大」と「比較」である。
拡大によって、非常に細かな部分まで見えるようになった。同じ時期に作られた、真贋を調べる方法は非常に細部(例えば鼻の描き方とか)に注目するものであった。
比較というのは、他の作品を隣に置いて見比べることが出来る、ということである。これによって、例えば同時代の作品のどこが違って、どこが同じか、ということが分かるようになる。
このように、技術の発達は、物の見方を変える。
映像技術の発達によって、人間には知覚することの出来ない映像を見ることができるようになった。
それは、拡大や合成などによる、ありえないアングルであったり、速度を変えたり編集による、見ることの出来ない動きであったり、だ。
こうした映像を見慣れている現代人と、全く見たことのない過去の人間では、同じように見たとしても全く違うことに気付くのではないだろうか。
「見る」ことと芸術作品との関係についての考察というと、フーコーが思いつくだろう。ベラスケスの『侍女たち』の分析だ。
画家と国王と鑑賞者の視線が交錯する作品だ。
そこから、「見る」「見られる」だの「近代的自己」だの「超越性」だの、といった話が出てくるわけだが、おまけ的に、ここからさらに東浩紀まで持って行ってみる。
動物化するポストモダン』の第3章だ。
近代では、見えるもの(例えば具体的な作品)から見えないもの(例えば作家のコンセプト、テーマ)へと遡行する。
だが、ポストモダンでは、見えないものから次から次へと見えるものが出てくるが、見えないものへは決して遡行できない。
例えば、コンピュータ上で動くファイルには、実際に目に見えている姿だけでなく、ソースファイルが存在する。さらに、そのソースファイルは機械語に翻訳することも可能だ。ソースも機械語も、見ようと思えば簡単に見ることが出来るし、またそれは決してテーマやコンセプトでもない。
『侍女たち』は、見えるもの(絵)から見えないもの(国王あるいは鑑賞者自身)に遡行させる作品だが、では例えばCGアートだったらどうか。