古川日出男『13』

世界が確かに在るように、神も確かに在る。
単語が、文が、イメージが、登場人物たちが、絡み合っている、そんな作品。


古川日出男は、以前から名前をちらちらと目にしていて気になる作家ではあったのだけど、とっかかりがなくて読めていなかった。
最近、三島賞を獲ったのを機に探して、手に取ったのが『13』
それが彼のデビュー作(正確に言うと再デビューみたい?)であることは、読み終わって、今この文章を書くために検索かけている最中に知った。

神との出会い

非常に映像的な小説で、またモチーフが神でありながらそこへのアプローチが唯物的なために、瀬名秀明の『BRAINVALLEY』を想起した。
しかし、無論内容は全然違う。
話は大きく分けて、第一部と第二部に分かれている。
第一部では、15歳の少年、響一の、ザイールのジャングルにある狩猟民族の村での生活と、同じくザイールの農耕民族の少女ローミが、キリスト教の聖者としての別人格「13」を発現していく過程が描かれ、第二部では、その10年後のアメリカ西海岸で、新人映画監督と響一による、ある映画製作についてが描かれる。
響一は、特殊な色覚異常によって非常に色彩に対して鋭敏な感覚を持っている。狩猟民族のプリミティブな暮らし、そして響一のアフリカに行くきっかけを作った彼の従兄弟が研究しているピグミー・チンパンジーの生態。これらの要素が絡み合って、響一はある時、神秘体験をする。
この神秘体験(トランス)のシーンが圧倒的なのだ。
それは、体力の衰えと毒キノコの見せた幻覚に過ぎない。しかし、響一はまさに「神」と出会うこととなる。僕らは、「神」と出会うことはできない。だが、響一が「神」を見いだす過程の中に、「神」がいることの確信を得ることなら可能だ。
要するに、ユクスキュルの環世界である。
響一の過ごしているキャンプの狩猟民族は、自分たちの暮らす普通の森と重なるようにして霊達の森があると考えている。森にはあちこちにその入り口があるが、そこはタブーとなっているわけだ。
そう、霊達の森=異界は遍在している。普段、それを見ることが出来ないだけなのだ。
世界がそこに確かに在るように、霊的な存在も「神」も確かに在る。しかし、通常人間はそれらを知覚することが出来ない。人間の知覚は、世界のごく一部を切り取っているに過ぎない。
例えば、人間は紫外線を視覚情報として捉えることが出来ないが、ある種の昆虫は紫外線をも知覚する。
あるいは、(これは作中に出てくることだが)鯨は音だけで物体を知覚するそうだ。
そして響一は、そのセンシティブな色彩感覚と毒と疲労で麻痺しかけた神経処理システムによって、この世ならざる色彩と霊たちを見いだすのである。
このシーンは、おおよそ全体の真ん中に位置するが、事実上のクライマックスといっても良い(とはいえ、最後の最後にもゾクっとするシーンがあり、全てが繋がるシーンなのでやっぱり重要なのだが)。
前半の様々な設定やイメージは、このためにある。
色彩、アフリカ、ピグミーチンパンジー
一方で、もう1人の主人公ともいえるローミの物語は、響一の体験ほど神秘的には見えないが、しかし響一のエピソードと響きあう。
ローミの属する農耕民族は、森に住む狩猟民族を悪魔と見なしている。そして、その悪魔に対抗するために白人の文物を取り入れ、白人の魔力を手に入れようとしている。そんな中、ローミはキリスト教の聖人となり、農耕民族のカリスマとなっていく。
彼女がカリスマとなり得たのは、ある奇跡のためであるが、この奇跡には実はトリックがある。そのトリックは、読者に対しては最初から開示されるのだが、作中の登場人物には(ローミ本人にすら)明かされない。それゆえ、作中の登場人物はみな、奇跡を奇跡として疑わない。
響一の神秘体験にしたところで、やはりそこにはトリック(キノコによる幻覚)があるが、響一自身はトリックに気付かずに土地の狩猟民族の信仰の中で自らの体験を理解していく。
あらゆる神秘は、非常に唯物的なトリックによって既に解明されている。
だが、だからこそ、その体験は圧倒的なのではないか。
僕らはいつでも、あらゆる解釈によって世界を切り出すことが出来るのだから。
「神」は世界に遍在する。世界をどのように切り取るかによって、「神」は知覚されたりされなかったりする。環世界論の応用であり、サイファであり、かつ郵便的なのだ。(サイファとは、遍在する根源的未規定性のことであり、郵便的とは、超越的存在が実は経験的存在にすぎないが故に超越性は複数性を帯びる、ということである)
さて、第二部では舞台も作品の雰囲気も一転する。ある新進気鋭の映画監督と女優の話となる。
だが、少しずつ響一が姿を現し始める。響一は少年の頃の神秘体験を映像化しようと試みていた。
響一が、再会した彼の従兄弟に語る、彼の目論見は、(残念なことに?)実に『BRAINVALLEY』っぽいのだが、そこにこめられた感情の深さは響一の方がより深い。
僕らは、彼の目論見が達成されるところを見ることにはならない(目論見がある意味達成される『BRAINVALLEY』と比べて、その点でより小説的だともいえる)。そして、そのことにホッともする。
しかし、最後の最後に描かれる「本物の」奇跡のシーンを読めば「クレイジーで、すてきで、不思議」な気分になる。響一の目論見もまた、「クレイジーで、すてきで、不思議」なものであれ、と願わずにはいられなくなる。そして、その願いはおそらく叶う。響一が日本で静かに口ずさんだ森の歌が、映画の主題歌の中にひっそりと織り込まれたことが、その証拠となるだろう。

雑種性(ハイブリティ)

2人の主人公、響一とローミは、共に雑種的な聖人である。
響一は「白人(アフリカでは日本人も白人扱いされるらしい)」の肉体を持ちながら、「黒人」の魂を持つ(ということになっている)。
ローミは「黒人」の肉体を持ちながら、「白人」の魂を持つ(ということになっている)。
この2人の交わりによって(さらなる雑種(ハイブリッド)が生まれ)、第一部は終わる。
ちょっとこれはてきとうな思いつきだが、第二部で響一が再び現れる場所が南米というのはその点で重要かもしれない。
南米に生きる人たちのほとんどが、混血児であるからだ。
アフリカが非常に民族的な血縁的な地であるのに対し、中南米というのは非常に雑種性のある地といえるのかもしれない(これは象徴的な意味であり、事実としてはおそらく必ずしもそうではない。アフリカの民族集団というのは結構ゆるやかなものらしい)。
ところで、わざわざ雑種性(ハイブリティ)なるタームを持ち出したのは訳がある。
つまり、この作品は結構ポストコロニアルな性格を持っているのではないか、ということだ。
とはいえ、おそらくこの作品の肝はやはり「神」にあるだろうし、アフリカという土地が選ばれたのはそのために過ぎないだろう(古川は決してアフリカを神秘的な土地としては描かないが、それでもアフリカは強烈である。また、何より色彩、アニミズム、ピグミーチンパンジーがアフリカが選ばれた重要な要素であろう)。
それでもこの作品は、非常に丁寧に、ザイールへと「白人文化」が入っていく様子や、国内の民族対立の様子を描き出す。
興味深いのは、アフリカ奥地への「白人文化」の入植は必ずしも支配・征服的なものではないという点だ。というのも、現地人は、敵対部族に対抗する魔力の源として「白人文化」を受容しているからだ。彼らにとって、Tシャツやジーンズは霊的装備なのである。
さらにキリスト教がやってくる。
ザイール政府は、ザイール国民を作るイデオロギー装置としてキリスト教の布教に腐心しているし、派遣されるカトリックの神父は純粋に宗教的義務感を持って布教に努める。地元民のキリスト教への考えは、上述した「白人文化」への考えと同様である。
ここで面白いのは、デイビッドという青年だ。彼はれっきとした「黒人」であるが、「白人」の霊的な力を得るためにデイビッドという名を名乗っている。さて、彼はまた熱心なキリスト教徒でもあるのだが、非常に独特な聖書解釈をしているのである。それはカトリックから見れば異端的・狂信的というべきものになっている。しかし、その解釈はザイールの人々には深く浸透していく。
そうした思惑、視点が複雑に絡み合いながら、土地が、人々が、文化が変容して様が描かれているのだ。

文章

映像的であり、かつ感覚的な文章であり、また内容もあいまってエンターテイメント的(に見える)
基本的に淡々とした筆致で、強い個性を持った文体でもない。
実に読みやすい
と、判断して読み進めると足を掬われる。
おとなしそうに見えて、実は癖のある文章を書く。ところどころ読みにくく感じるところすらあった。
しかし、その癖がおそらく、古川の描く世界を支えているのだと思う。
難読漢字の多用や、カタカナのルビ、太字など、活字の演出も多々ある。ただ、そこらへん(というか太字)の演出意図は正直読み切れなかった。
細かな表現で、ところどころ目をひかれる。
全編に渡って三人称の文章だが、一カ所だけ響一の「俺」という一人称が地の文に現れたり、やはり一カ所だけココという登場人物のセリフが地の文に現れるところがあった。

情報の扱い

アフリカについての知識は、ほとんど僕にはないので、何とも言えないところなのだが。
どれだけリサーチして書かれた作品なのかが、不明というのはちょっと残念だった。
唯物的なトリックを仕掛けるのだから、そのためにはリアリティが必須で、そのためには確かな情報が欲しいところである。多分、それはちゃんと調べているのだと思うけど。
ただ、瀬名のように科学を題材にしているわけでもないし、必ずしもリアリティを目ざしているわけでもない作品なので、そこらへんがぼんやりならざるを得ない。
決定的な欠点ではないんだけど、ちょっと気になったから。

小説として

小説自体を読むのが久しぶりで、しかしこんなに面白くてスゴいものが読めるとは。
とにかく読んでて「ヤバイ!」を連発した、エキサイティングな作品であることは確実。
とってもエンターテイメントなんだけど、「文学性」「小説性」みたいなものがひっそりとある。
つまり、この作品はストーリーにはあまり重要性がない。
というか、ストーリーそのものはあまり秀逸ではない。
ただ、個々のシーンにおける、イメージと表現が読むべきところになっている。
トランスシーンなんか、トランスするということは分かり切っている(つまりストーリーは単純な)わけで、そこがどう描かれているのか、という方が注目に値する。そして、そのシーンにじっと留まっていたくなる。
とはいえ、この作品は「絵画」ではなく「小説」だから、そんなわけにもいかないし、むしろ個々のイメージの絡まり合いというところも見所。
第二部は、舞台も登場人物も第一部とは全然違うが、響一が再登場してからはいくつかのタームやイメージが第一部とオーバーラップしてくる。

13 (角川文庫)

13 (角川文庫)