『サブリミナル・マインド』下條信輔

人間は、自分のこともあんまり自覚できてない、という話。
『ユーザー・イリュージョン』なんかと共に読むと、非常に面白いかと。
人間の「意識」というのは、けっこうショボい。
物事を知覚したり、判断したり、という情報処理のほとんどは、「無意識」「閾下知覚」「潜在的領域」がやっていて、人間はそれをほぼ全くといっていいほど「意識」「自覚」できていない。
ということを、豊富な心理学の実験例をもとに検討している。


実験例の一つ一つが、とても面白い。
よく考えてみれば、確かにそういうことはあるな、って納得できるところから、ちょっとすぐには納得できないようなものまである。


で、面白かったことをいくつか

誤帰属

心理学の実験で、被験者の行為が「本当は」何か分かっているのが、被験者本人はそれを「自覚」していないとき、被験者に「何故そういう行為をしたのか」と聞くと、全然関係ない理由を答えることがあるらしい。
これは、原因を、被験者本人が自覚てきていないために、とりあえず納得できる別の理由に「帰属」させている、ということらしい。
まあ「合理化」のような機制だと思うのだけど。
この「誤帰属」という現象は、人間は結構頻繁にやらかしているような気がする。
非常に、生物学的・機械論的に説明できることなのに、納得しやすいべつの「物語」を勝手に作ってしまう、ということ。

「気づき」

あるターゲット刺激に対して、何らかの行為をしてもらうような実験において、
ターゲット刺激があるかないか自覚できていないのに、行為してしまうことがある(そして、こういうときに誤帰属が起きたりするわけだけど)。
本人は、「意識」の上ではターゲット刺激に気付いていないんだけど、それに先だって無意識下ではターゲット刺激に気付いている。
例えば、カクテルパーティ効果とか。
意識的には聞こえていないんだけど、無意識下では聞こえている。
そういう無意識下での「気付き」をどれだけ自覚できるか、というのがいわゆる「感性」の違いなのではないか、と思った。

直接経験の「最終性」

「最終性」とは、それ以上遡って根拠や真偽を問えないという意味です。「歯が痛い」というとき、少なくとも当人にとっては痛いから端的に痛い

しかし、実際には、生物学的・心理学的にその因果関係を記述することが出来る。
そこに「人間観」の乖離があるのではないか、というのが作者の問題提起であって、そこから人間の「自由意志」について考察が巡らされている。
「最終性」は本人にとっては疑いようのない確実なものだけど、実は潜在的記憶やら無意識での気付きやらで色々外部からコントロールを受けているかもしれない、あやふやなものかもしれない。
でもそうすると、本人の「自由意志」すらも蒸発しかねない。

サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)

サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ (中公新書)