『可能世界の哲学』三浦俊彦

様相論理学の可能世界論についての入門書
入門書なので、様相論理学や可能世界論について何も知らなくても読める。が、多少興味がないと手に取りにくいかも(^^;
だけど、とても面白い本。

分析哲学、論理学

哲学と言っても色々あるわけで、もちろんこの本はその中でも「可能世界の哲学」を扱っているわけだけど、それは哲学のジャンルでいうと「分析哲学」の中に含まれている。
さらに言えば、「分析哲学」は「現代思想」にカテゴライズされるだろう。
で、この「現代思想」というのは、かなり大雑把に言えば「大陸系ポストモダン思想」と「英米分析哲学」の2つに分けられる。
現代思想」というと、大概は前者(ポストモダン(しかも特に仏))を指すわけですが、実際には「分析哲学」も忘れてはならないわけです。
それで、どうも著者の三浦俊彦は、分析哲学あるいはそれの基礎となる論理学に相当肩入れしているようで、言うなれば論理学への転向をアジるような文章があって、それはそれで面白い

手軽なニューエイジ思想やポップ哲学と戯れることで文学的空想や宗教的法悦に一挙に飛躍しようとするよりも、一歩一歩の地味かつ地道な論証を積み重ねていった方がそうした超越的境地へ深く入り込めることもあるのだ、という真実に、読者が気づく手助けをすることが本書の目的でもあります。
論理による納得には、いかなる洗脳や恍惚体験の効果も及びません。のみならず論理は、どんなドラッグや音楽や宗教よりも人間をハイにします。(中略)一人でも多くの文学少年・文学少女に、ロジカル・ハイの芳味を味わっていただきたいと思います。

こんな素敵なアジビラ書かれたら、ころっと転向しちゃいます(笑)
一応、2点ほど、反論というか気になった点を挙げておくと
一つは、彼の仮想敵ともいうべき(?)「ニューエイジ思想やポップ哲学」って今やどこにいるのか、ということ。とはいえ、97年の本なのでこれは致し方ないのかもしれない
もう一つ、英米系哲学と大陸系哲学の間には「鉄のカーテン」がひかれている、とまでこの著者は言うのだが、確かに別々の道を歩んではいるものの、完全に断絶しているかと言えばそれはそれで疑問

内容

アジビラだ、とか書きましたが、本文そのものはいたってまともですよ(笑)
小説家でもあるらしいので、ちょっと面白いなと感じる表現があったりもしますが。
全体の構成としては、可能世界という概念を導入することで一体何の役に立つのか→可能世界とはそもそも何なのか→量子力学の多元世界解釈と可能世界の関係→可能世界論の応用・発展
面白いのは、普通なら定義から始まってその効用を述べるであろうところが、逆になっていること。
実はそこに、可能世界という概念の特徴がある。
つまり、可能世界というのは、いくつかの論理学における問題を解く上で必要に迫られて生まれてきた概念だということだ。論理学や数学を見ていて面白い、と思うのはまさにここで、数式や論証の進行に伴って、思いもよらないものが生まれてきてしまうのだ。人間の直観やら想像力やらというのには(ある意味では)限界があって、しかし数学や論理には(ある意味で)限界がない。

第一章

可能世界意味論は(中略)、言葉の「意味」という質的でわけのわからぬものを(中略)、量的で具体的な概念への指示に置き換えることが出来る

質から量への変換、つまり量でもって質を説明しうる、ということ。
また可能世界論は意味論の他に、小説や映画などのフィクション・虚構世界を分析するツールとしても有効である

虚構として導入される対象や出来事は(中略)、少なくとも現実世界の別のあり方をシミュレーションしている

現実世界そのものが多数の可能世界の重ね合わせだということです。この相対主義的認識を意識的に働かせる場として、小説や映画のような虚構体験というものが有効に機能している

この本ではこれ以上、虚構世界の分析についての話には深入りしないのだが、このあたりを読んでいて嬉しくなった。
数年前、小説や映画というのは世界と世界とのインターフェイスの役割を果たしている、ということを考えていたのを思い出したからだ。

第二章可能世界のネットワーク

この章は、後半が難しくて、まだ消化不良だったりもするのだが、前半部をまとめておく。
可能世界というものの条件として「独立性」というものがある。ある可能世界と別の可能世界は時空的に断絶しており、因果的な相互作用はない。つまり、可能世界と可能世界の間を行き来することは不可能である、ということ。そういう点で、SFのパラレルワールドとはちょっと違うのである。
そして、そうした無数の可能世界を収納しているのが論理空間と呼ばれる。
ただし、可能世界同士に因果関係はないが、到達関係とよばれる関係はある。到達関係とは、可能世界同士がどれだけ類似しているかの尺度であり、それによって可能世界同士はネットワークを形成している。
この独立性、というのは、ある可能世界をある人の信念なり世界観なりと考えれば、それは信念や世界観というのは共訳不可能である、ということなのではないか、と思う。共訳不可能というのはつまり、(SAK用語では)特異点を持っているということになる。
この論理空間的な考え方(?)は、元々は多元世界解釈にインスパイアされて考えていたことなのだが、可能世界論はこの考え方をより洗練しているように思えて、やはり嬉しくなった。

第三章可能世界とは何なのか

そして、ここからが本格的に面白くなってくる。
つまり、ここで論じられるのは、可能世界というのはあくまでも論理的なテクニックから要請される概念に過ぎないのか、あるいは実在しているのか、ということ。
ここで面白かったのは、行動主義とクオリアの話にも似たような議論が、ここでもなされているということ。
可能世界が実在するかどうかによって、このものがこのものであるとはどういうことか、という同一性の議論にも影響を与えてくる。
クオリアというのも同一性に関わるものであるし(直接的には可能世界とは無関係だけど)。
ここでは、ある何らかの性質は時空間のパターンに併発しているのか否か、という問題がとりあげられる。これが、心とは脳の神経回路の発火パターンに併発しているのか否か、という問題と心なしか似ている気がしたのだ。

第四章可能世界は本当に有るのか

第三章では、実在論を擁護するのだが、第四章では逆に実在論を批判する。
可能世界が実在する、と仮定すると、帰納法の正当性を供給できない、というのだ。
あるいはオッカムの剃刀
帰納法にしてもオッカムの剃刀にしても、何故正しいのかわからない僕にとって、このあたりもやはり非常に面白い
さらに、可能世界が実在すると、倫理的ニヒリズムに陥りかねない、という話も出てくる。
例えば、あなたが車にひかれそうな子供を助けたとする。しかし、それと全く同じ確かさで、あなたがその子供を助けない可能世界も実在するし、あるいはまさにあなたがその子供をひき殺す可能世界も実在してしまうのだ。ならば、助けても助けなくても同じではないのか。しかし、可能世界が実在すると考える場合、それぞれの可能世界にいる「あなた」は同一人物ではなく「分身」だと考えるので、倫理性は保たれるのではないか、と反論される。

第五章自然科学と可能世界

量子力学の多元世界解釈と可能世界論の比較。
同じようなものだと思っていたが、可能世界には独立性という条件があるのにたいして、量子力学の多元世界の場合、その条件はあまり考えられていない、という差がある

第六章可能世界の外側

可能世界は、基本的に排中律を認める論理学に拠って立っているが、排中律を認めない直観主義論理学他、お互いに相容れない様々な論理学がある
そのため、どの立場にたつかによって、論理空間そのものの姿が変わってしまうのではないか、つまり論理空間も複数存在し、超論理空間を形成しているのではないか、というのだ。
自分が共訳不可能とか特異点とか言って考えていたのは、むしろこちらに近い。

ある一つの哲学的立場を選ぶと、一つの論理空間だけが可能となり、すわなち存在し、他の無数の論理空間は不可能として排除される。しかし、さらに広い視野で考えれば、無数の論理空間が同等の資格で存在している。

そして、さらにこの章では、先ほどの帰納法オッカムの剃刀のような秩序、あるいは自分という存在や心という類稀なものについて探っていく。
この問いは、安易な人間原理独我論に陥ってしまいやすいが、そもそもこのような問いが生じるのは、これらが稀なものと認識されているからである。

いかなるランダムな状況に対しても、秩序・法則を選び出す認識の仕方が存在するのではないかということです。(中略)この@(引用者注:我々のいる世界のこと)も、客観的な尺度からすればさほど秩序立っているわけではなく、最もありふれた度合の適度なでたらめさに満ちているのに、その中に住む意識の観点からすると、きわめて精妙な、高い規則性に律された状況のように見えているのだと、そういうことに過ぎないのかもしれません。

可能世界論は、心や知性というものをありうるすべてのレベルの中に相対化することによって、特権の虚像を剥ぎ取ることが出来るのです。


そもそも、心というものは決して特権的な存在ではない。
実に単純で、ある意味拍子抜けするような結論、しかし一つ一つ議論を辿ってここまで到達するとそれは不思議でも何でもないように感じられる。

可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える (NHKブックス)

可能世界の哲学 「存在」と「自己」を考える (NHKブックス)