小川一水『老ヴォールの惑星』

SF短編集

  • 「ギャルナフカの迷宮」

読んでいてまず、『芽むしり仔撃ち』を思い出した
その作品については以前レビュー(05年8月19日)を書いてます

現実の悪意によって不意にそんな暴力/死に晒された子供たちは、普通の社会とは別の形でそれを成し遂げようとする。かっこよくまとめるならば、脱社会的存在(宮台)によるオルタナティブな社会の姿とでもいえばいいだろうか。

「ギャルナフカの迷宮」は、全体主義国家が舞台で、思想統制によって逮捕された人々が、巨大な地下迷宮に捕らえられるところから始まる。
必要最低限の食料(餌)と水しか供給されず、そしてその餌場と水場が描かれた地図だけを持ってその迷宮を永遠に彷徨わなければならないのである。
しかし、そんな迷宮にも社会を作ることは可能だ、という話
終わり方もとてもポジティブで、作られたオルタナティブ社会も、地上が全体主義国家であるために、非常に理想郷的

  • 「老ヴォールの惑星」

表題作
人類とはまったく異なる知性体が、滅亡を免れるために地球人類とのコンタクトを試行する話
人類とは異なる知性体というと、『レフト・アローン』の「コスモノーティス」を思い出す。あれはポスト人類であって、人類とはまったく関係ないわけではないのだけど。
どちらにしろ、生命が生き延びるには過酷としかいいようがない環境下に生存する知的生命体が登場する。そのどちらもが、道具を持たない、というのは面白い。通常、人類であれば道具に頼るようなこともすべて自分の肉体に備わった能力によって成し遂げている(例えば、彼らは非常に巨大な水晶体を持っているので、望遠鏡がなくても天体観測ができる)
よくぞまあこんなこと考えたなぁ、以上の感想はあまりない

  • 「幸せになる箱庭」

ヴァーチャル・リアリティの話
簡単にまとめると、つまらなかった。
「終わりなき日常を生きろ」ってのと、高度なヴァーチャル空間は現実空間と見分けがつかないよね、ってだけの話だったような

  • 「漂った男」

で、上3作読み終わった時点で、かなりがっかりしていたのですが、最後のこれは非常に面白くて、これだけで読む価値はあるかと。
ある宇宙飛行士がある惑星に不時着。そこは表面積が桁違いに大きく、また全面が海なので、探索が非常に困難だったのだが、環境があまりにも恵まれていて生存には全く困らなかった。
というわけで、その宇宙飛行士が、来るかどうかもわからない救助を待って、ただだらだらと生活していく話なのだが。
彼は、あるアクシデントを乗り越えてその惑星での生活に適応する。それは、どんなくだらないことでもいいから日課をつくり、単調な生活に意味を持たせ、まさに「終わりなき日常」をサバイブしていくこと(「ギャルナフカの迷宮」では日常を生み出すのは他人との共同生活である、とされているが、こちらでは単独で日常を生み出していく)。「意味を持たせ」というものの、そこには過度な「意味」はない。ただ淡々とやり過ごしていくためのものでしかない(思えば、イーガン小説でソフトウェア化された人類の大半は、そういう生き方を身に付けていた気がする)。
作業の無意味さ、空虚さをどこかで知りつつ、しかし生き延びるために数多もの作業をこなしていく姿は、まさにアイロニカルな参入離脱の自由(に見えないこともない)。
そうした生き方に完全に自足しうる主人公だが、最後の最後にそこからの脱出をせざるを得なくなる。
そこはロマン的といえばロマン的かもしれないけれど、思わず感動してしまい、電車で読んでいなければ泣いていたかもしれないw
日常への自足(ある種の幸福)、そしてそこから脱出するための決意、という二段重ねがよくできていたのではないか、と思う