『限界の思考』

宮台真司北田暁大の対談本
基本的に、宮台は同じことをずっと繰り返し言っていて、それに対して北田が色々な方向から質問をする、という体裁
サイファ』の方が読んでいて「限界」って感じたりしたんですが。
宮台は、ヘタレ右翼、ヘタレ左翼、ホンモノ右翼、ホンモノ左翼というような区分をするのだけど、それでいくと自分はわりとホンモノ右翼かもしれないなどと思ったりw
まあそんなことはどうでもいいや
全体としてはアイロニカルに振舞う、とは何か、ということを論じていて、さらにいうと宮台は、最近のアイロニーはオブセッシブなアイロニー(韜晦)なので、そのオブセッシブを解除してあげたい、という。
オブセッシブなきアイロニー諧謔)を手に入れて、もっと自由になろうよ、というのが、繰り返される宮台のメッセージ
オブセッシブなアイロニーというのは、アイロニカルに振舞うことに没入してしまい、あらゆる対象をズラしていくが「ズラす」という行為そのものからズレることができない状態。
そこからオブセッシブを解除すると、「ズラす」行為から「ズレる」ことができるようになる。アイロニカルに振舞うことそのものから降りることができるようになる、ということ。
オブセッシブなアイロニーが不自由なのはよくわかるけれど、ではオブセッシブの解除されたアイロニーも本当に自由なのだろうか、というのがひとつの疑問。参入離脱自由である場合、その参入離脱の意思って一体どこから供給するのだろうか。宮台のいうオブセッシブなきアイロニーというのは、まさにその参入離脱の意思をアイロニカルに見る態度だと思うので
とはいえ、それを実践できている人間がほとんどいないのであれば、先回りしてそんな疑問を投げかけるのはプラグマティックな観点から見るとよくないのかもしれないが、しかしそこらへんが気になる。
人間の自由を供給してやってるものって何?というのが、自分の思考のテーマのひとつだったりするので。
北田と宮台の戦略の差として、宮台は社会設計する側のリソースが不足していると考えるのでエリートを育成しようと考えるのに対して、北田は設計する側のリソースの不足をそもそも設計する/されるという立場の違いの消滅と考えてポピュリズム的な考え方をする。
どちらにしろ、「全体が部分に対応する」というアイロニーは維持しつつ、専門知をある程度全体知の中でマッピングしてやる、という相反する行為を同時に遂行してやらないといけないんじゃないか、という点でおおよそ一致する。
安易に全体性を語ってはいけないが、一方で専門知の乱立だけでもどうしようもない。だから、暫定的な公共性を作らないんじゃいけないのか、近代って奴は結局そうしないと回らないだろう、という話
結論だけ先回りして言ってしまえば、わりとどってことのない話なんじゃないでしょうか。とはいうものの、いかに実践するかとなると非常に困難でもある。

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学