小説トリッパー春号

  • 特集「ネットから遠く離れて」

以前聞いた大塚英志の講演会と内容はほぼ同じ。要約はおおよそ以下の通り。
現在は、完全な近代である。この完全な近代化にネットによってもたらされた。ただし、それは量的な問題であって、質的には明治維新の頃と同種のものである。現在、ネットなどで語られている多くの言葉(社会とのつながりがもてない、など)はすでに近代文学において多く語られてきた。ネットというツールによって、多くの人がそれを語ることが出来るようになっただけであって、それは本質的な変化ではない。よって、ネットによって「新しい文学」が出来るわけではないが、逆に今こそ近代文学が読まれうる土壌が育ってきているともいえる。
文学(自然主義運動)は、もともと「公共性」を作るために言葉を作っていく運動であった。すなわち、社会的ダーウィニズムへの抵抗策としての「ことば」を作っていくこと。しかし、日本近代文学はそれに失敗した。「私」を語るだけに終始し、そこには他者がいない。「公共性」のある「ことば」のためにはそこに他者がいなければならない。また、その「ことば」とはいつでも「暫定的」なものにすぎない。そうした「公共性」は絶えず更新されていくものだから。
ただ「私」を語るだけの狭義の文学には最早全く興味がないが、社会的ダーウィニズムに抵抗しうるかもしれない、運動としての広義の文学に関しては作らなければならないと考えている。また、それが文学の責任だとも考えている。
他、いわば「文学業界」からの批判に対して、大塚が答えるといった感じ。全体的に、大塚の苛立ちが伝わってくる。一つ面白かったのは、大塚の小説技法や小説を書くのを援助するソフト(そういうのがあるのを知らなかった)を使って「書かされている」感覚を感じてほしい、と言っていたこと。質問者は、それは「抑圧」なのではないか、と批判していたが。多少読み飛ばしたので、大塚の考えとは違うかもしれないが、おそらくこういうことだと思う。つまり、文章の持つ形式を身に付けること。文章には必ず形式があって、それに当てはめて書くことで人に伝わりやすいものを作ることが出来る。これは、英語のパラグラフリーディング・ライティングなんかをやればわかる。日本人はわりとそういうものを軽視しがちではないか、と思う(例えば、政治家の答弁なんてその最たるものではないか。「〜ですか」には「はい」か「いいえ」で答える、「何故か」には「〜だから」と答える、というのはあまりに単純な規則だが、これを守るだけで随分わかりやすくなるはずだ)。
また、大塚は来年から、そのための実践として大学講師をまたやるらしい。
他者のいる文学、といったら大袈裟ではあるけれど、そうしたものは書きたいなあ、とは思っている。また、「公共性」というものに対しても(最近の流行でもあるが)興味はある。そういうジャンルに手を出したくはないのだけれど(^^;)何やら考えてしまったりはしている。

携帯で小説を配信することになったらしく、それについて。
シンセミア』によって染み付いた文章の書き方を一度リセットしたい、とのこと。

ウェブ進化論』で、現在のブログ隆盛は一億総表現時代(まさに大塚の考える近代の徹底)と名付けられているらしい。で、それについて。
かなり、基本的な内容(ネットでのコミュニケーションの分類(メール、掲示板、ブログ)とか)から始まっていて、それほど深い議論は特にないが、例えば大型掲示板でのコミュニケーションの一つとして「テンプレート」があげられている。
ある形式を使って、たいていは冗談などを書くわけだが、時折シリアスなものも書かれる。非常に匿名的に、自分の感情を伝える手段としてこうした「テンプレート」が使われている、と。細かい事情などは書きたくないし、人からのコメントも必要ではないが、自分の感情を書き留めておきたいという欲求によって書かれたもの。仮に「ポエム系」とでも名付けておく。
ネットは双方向的コミュニケーションなどと呼ばれているが、双方的なことは滅多にない。そうした一方向的コミュニケーションの中で、加野瀬はこうした「ポエム系」に注目する。今後のネット社会においては、双方向的なロジカルな議論が広げられる一方で、「ポエム系」も増加していくだろう。どちらかに収束するのではなく、それぞれが共存していくなかで、文学は「ポエム系」の中から生まれていくのではないか、という結論。

新連載。社会と小説の接点を再び探し出そう、という狙い、なのだと思う。
取り上げられた作品が東野圭吾の『容疑者xの献身』で未読だったので、内容はほとんど読んでいない。評論の結論だけ読もうとしたら、『容疑者xの献身』のオチも分かってしまった。
この作品では、環境管理型社会とはどういうものなのか、が描かれているとのこと。フィルタリング技術が社会に適用されていることを前提にしたミステリらしい。フィルタリング技術に関しては、バウマンを参照するといいようだ。

震災文学と銘打ち、阪神大震災後の文学について考える。震災が発生直後戦争の比喩で語られたことに最初違和感を覚えた斎藤だが、何らかの切断線が入ったという意味でその比喩は妥当だと思い直す。震災・オウムは戦後日本にとって戦争だったのだ。
被災者は「リアル病」に罹っていたという。すなわち、その後のオウムの地下鉄サリン事件の折、サリンに苦しむ人々の姿に強く関心を持った一方、識者の解説などはほとんど耳に入らなかった、と、「リアル」に対する感受性が強くなったらしい。この「リアル病」に罹った人の例として、ある精神科医の手記が紹介されていたのだが、彼は精神医学の本を読まなくなってしまったらしい。
また、震災において、引きこもりの青年が社会復帰できた、というケースも紹介される。「一万円を持っていてもおにぎり一個買えない」ことに対する解放感。日常のシステムが崩壊することによって得られた解放感によって、社会活動に参加することができたのだ、という。
「戦争」という切断が、システムを停止させる。そして、システムの停止によって浮かび上がるものがある。そうしたものに対して文学は如何に答えることが出来たのか。ほとんどの文学は一緒に停止してしまったのではないか。その証拠に、震災文学評論を書いたのは大塚英志ただ一人である。
大塚の論を紹介しつつ、次回へ。