『リバタリアニズム読本』森村進編著

現代人必読の書、とまではいかないけれど、読んでほしいし読んで損はない本。
一応、ここで自分の立ち位置を明確にしておくと、リベラル左派ということになると思う。自分は決してリバタリアンではなく、むしろリバタリアンとはしばし対立することになるリベラル側の人間である。
しかし、それでは何故、この本を薦めるかというと、その理由はこの本の特徴にある。これは当然日本の本だが、“The Libertarian Reader:A Compact Dictionary”という英語タイトルがついている。Dictionaryというタイトルに相応しく、29個の基本的なキーワードがあげられて、それについての解説が書かれているのである。
これらのキーワードはあくまでもリバタリアン側から書かれたものではあるが、「右翼と左翼」「共同体主義」「自然権」「自由」「リベラリズム」といったキーワードは、政治思想を問わず整理に役に立つ重要な概念だし、リバタリアンが支持する「最小国家」とリベラリストが支持する「福祉国家」なども挙げられている。

概念の整理として

動物化する世界の中で』で東浩紀はこう述べている。
「八八年から八九年にかけて(中略)多くの高校生は「右」や「左」の意味すらよく分からなかったはずです。かくいう僕自身、「右翼」がナショナリスト保守主義者を指し、「左翼」が共産主義者社会主義者を指す、という常識以前の常識をきちんと知ったのさえ、ようやく大学に入ってからのことです」
80年代後半には、右翼や左翼という形での政治的立ち位置の整理の仕方はもはや失効していたようだが、現在はどうだろうか。2ちゃんねるは右翼的だと言われ、市民運動家は左翼あるいはサヨクなどと呼ばれる。
もはや失効したとしか思えないこうした概念を使って、未だに政治的立ち位置を整理しようとする姿勢があまり好きにはなれない。今現在の日本で、左翼と呼ばれているような人たちのなかで共産主義者社会主義者がどれだけいるか(共産党ですら掲げている政策は決して共産主義社会主義ではない(超長期的なものを除く))。また、左翼を革新勢力と定義づけるのであれば、左翼は平和主義者ですらない。
いまや、右翼、左翼といった言葉とは別の言葉で、政治的立ち位置を整理する必要があるだろう。
リバタリアニズム読本』の中では、人格的自由と経済的自由で座標軸をつくり、各象限にリバタリアンリベラリスト保守主義者、権威主義者をプロットして4分類を示している。保守主義者を新保守、権威主義者を旧保守と言い換えることも可能かもしれない。また、コミュニタリアン共同体主義者)もいる。これは、この4象限の分類ではうまくあてはまらないが(どの象限にもコミュニタリアンはいる)、多くは権威主義者の象限と重なるだろう。
この本を読んで、リバタリアニズムに対してどのように感じたかによって、自分がおおよそどの象限にいるかをおそらく把握できる。
完全に真逆であれば権威主義者であろうが、同意できたり出来なかったりという場合は同意できた(あるいはできなかった)分野や度合いによって、リベラルか保守にプロットできるはずだ。
「立ち位置」なるものを気にする必要は必ずしもないし、むしろ固執しすぎて「立ち位置」のプロットばかりに熱中しては本末転倒であろうが、ある程度自分や相手(例えば選挙の立候補者)の立ち位置を確認しておくことは決して無駄にはならないはず。そしてその際、右か左かという二項対立ではなく、せめて4象限くらい用意しておくことが有益だろう。

概念の整理として2

自由という言葉は、バーリンによって2つに分類された。すなわち「消極的自由」と「積極的自由」である。
「消極的自由」とは、なにものにも束縛されない自由、「〜からの自由」である。
「積極的自由」とは、自分で自分を律する自由、「〜への自由」である。
財産権などは「消極的自由」であるし、参政権などは「積極的自由」である。
この区分は、いろいろと便利だしまた重要だと思う
また、この本の中では、これ以外の自由概念について解説しているし、時代によってどのような意味で捉えられていたか、ということも解説している。
例えば中世において自由(Liberal)は自由民の階級を指し、そこから教養(LiberalArts)という言葉が生まれた、とか。

リバタリアニズムへの賛意

リバタリアニズムへは、大体半分くらい賛同する(だから自分の立場はリベラル)。
また、確かに賛同できない部分は多々あるにしても、他の政治思想と比べると自分の考えに近く、共闘は可能だと考えている。
それは、反共同体的である点と合理主義である点だ。
リバタリアニズムはありとあらゆる共同体を拒否する、というわけではないが、彼らの認める共同体は、あくまでも個人が任意で参加・脱退できるもののみである。というのも、彼らは個人と個人あるいは個人と集団との関係を契約関係で説明しようと試みるからである。国家も、あくまでも社会契約によって成立しているものであって、個人に先立つものではないのである。
また、ハイエクの「自生的秩序」という概念も見逃せない。
これは「人間の行為の結果ではあるが、設計の結果ではないもの」と定義される。つまり、秩序とは、あらかじめ計画、設計されなくても生み出すことができるということである。
これはハイエクの以下の知識論にも基づいている。すなわち、知識とは各人に分散されて存在しており、一カ所に集中して存在しない、というものである。各人が自由に行為することによって、分散された知識が最大限に使われ秩序が形成されるのであり、一人の人間(一カ所)が統一的な知識によって秩序を設計することは出来ない、と考えたのである。
これはまた、各人が合理主義的に、利己主義的に振る舞うことで秩序が形成できる、という考えでもある。
アダム・スミスの「見えざる手」のように、近代社会は各人が「利己的に」振る舞った結果として、秩序が生まれる仕組みを持っているのである。リバタリアニズム利他主義を偽善として排する。
また、知識の獲得は合理的にのみ行われるのであって、信仰などによって神秘主義的に行われるのではない、というランドの「客観主義」という考え方もある。
自分の政治的立ち位置において、仮想敵は主にコミュニタリアンロマン主義者である。こうした合理主義的な考え方は、コミュニタリアンロマン主義者に抵抗するものなので、共闘可能だと考えている。また、利他的よりも利己的であるべし、という考え方にも賛同する。

リバタリアニズムへの疑義

自分は、基本的な政治立場としてはリベラルあるいはリベラル左派である。ロールズ的正義や財の再分配を支持し、また、反戦論者でもあるのがその主な理由である。
ただし一方で、超長期的には近代社会(民主主義、資本主義)は抱えている問題点が多く、何らかの別の形に変化した方がよい、と考える点では(革新という意味での)左翼である。ただし、共産主義は支持しない。ハイエクの「自生的秩序」や「知識論」でみたとおり、計画経済を支持しないからである。自分の資本主義に対するスタンツは、市場による秩序の維持という点は支持しつつも、拡大再生産という点に対して疑問を投げかけるというものになる。

  • まずリベラリストとして。
    • 社会の維持には積極的自由が必要なのではないか

リバタリアンは、消極的自由は強く擁護するが積極的自由をあまり擁護しない。リバタリアンというのは、いわば超自由主義者であり、消極的自由や自然権自己所有権)はほぼ限界にまで擁護するのだが、逆に積極的自由を擁護することは個人の行動に対する制約や介入となりかねないので支持しないのである。
だが、本当にそれで社会は維持されるのだろうか。自生的秩序に関しては支持するものの、それは消極的自由による行為の結果だけでなされるのだろうか。リバタリアンは社会参加から降りることも自由と考えるだろうが、無制限に降り続けられた場合社会は崩壊する。無論、各人が十分に合理的、利己的であった場合、無制限に降り続けられるということは考えにくいことではあるし、資本主義経済においてむしろ問題なのは「降りる自由」が本当に確保されるか、ということだがそれについては後述。

リバタリアン的社会は、非常に流動性の高い社会である。未だに日本の流動性はそれほど高くないので、流動性を高くすることには賛成するが、その行き過ぎに関しては危惧がある。つまり、流動性の増大は「祭り」を増やし、集団の意思形成過程を一様化させる一方で積極的自由へのインセンティブを低下させるのではないか、ということだ。
高い流動性は、各個人が様々な共同体や価値観にコミット(オミット)できるので一見多様だが、「祭り」が起きやすく、「祭り」は非常に一様的な現象をもたらす。流動性の増大は多様性を減少させる可能性が高い。また先ほど言ったように、「降りる自由」も増大するので社会参加から降りられる可能性も高くなる(=積極的自由へのインセンティブの低下)。

    • 司法システムの維持について

リバタリアンは、その内部でさらに分類される。多くは「最小国家」を支持するが、一部には「無政府資本主義」と呼ばれる完全に国家を民営化させようとする考え方もある。
要するに問題は「暴力」を如何に管理するか、ということだ。国家とは、私人間の水平的な暴力を一カ所に集中し垂直的な暴力へと作り替えたシステムともいえる。私人間の水平的な暴力とは、ホッブスのいう自然状態(万人の万人に対する闘争)だ。
リバタリアンは、垂直的な暴力の行使(しかも国家という仮想的存在からの)は自由や権利への侵害として決して認めないか最小限に抑えようとする。無論、この点では異存はない。リバタリアンはこれを解決するために暴力を分散させ複数化させてしまう。
力を分散させる、というのは権利侵害を最小限に抑えるための有効な手段であり、例えば三権分立などがあげられる。権力の分散は当然行われるべきだが、それは各権力機構を互いに監視させ暴走を抑えるためである。
リバタリアンは、司法システムを複数化させ、市場などによって暴走を抑えようと発想する(例えば複数の警備保障会社による治安維持と裁判)。あるいは、垂直的な暴力から水平的な暴力へと再構成しようと考える(例えば、刑事事件を刑事罰ではなく損害賠償へと変えてしまうとか)。しかし、これで本当に暴走を抑えられるのか。暴力を水平的な関係でうまく処理・管理できるのか、ということは疑問を持たざるを得ない。
暴力の行使を最小限に抑える、権力(暴力)を分散させることには当然首肯するが、しかしそれでもある程度の暴力の集中は不可欠なのではないか、そしてそのように集中した暴力を管理するための公共圏の形成が必要なのではないか。

    • 積極的自由の意義とそれをを支えるためのリソースの再分配

政治とは要するに、個人間、集団間で利害の対立が生じたときにそれを調整することである。民主主義というのは、基本的に話し合いによってその調整を行う、という考え方だ。積極的自由とは、その話し合いに参加する自由のことだ。そして、その話し合いをする場を公共圏と呼ぶ。
「社会の維持」と上述したが、そこで指している社会とは公共圏のことである(つまり必ずしも国家や共同体を指すわけではないということ。「国家」と「社会」を強く区別する点でリバタリアンと自分は見解が一致する)。
市場が公共圏を作るのではないか、という考え方も出来るが、稲葉振一郎(リベラルの社会学者)が「市場は公共圏の成立を保障しない」と述べているということで、とりあえずその点はパス。また、公共圏でも各人は利己的に振る舞うのだから、ハイエクの知識論や自生的秩序とは矛盾しない。
さて、その積極的自由を持つためには、社会の構成員がある一定の能力を有している必要がある。一定の能力を各人に平等に持たせる、というとリバタリアンは各人の自由や権利、ライフスタイルに介入している、と主張して反対するのだろうが、この最低限度の能力に関しては介入させてもらう、というのがリベラルとしてのスタンスとなる。そして、このためには経済的・文化的リソースが平等に分配される必要があるだろう。すなわち、ある一定水準の教育を受けるための経済的能力と知識や情報へとアクセスできる文化的能力の分配だ。
また、積極的自由へのインセンティブを向上させるにはリハビリテーションが必要なのではないだろうか(これは最近の大塚英志と全く同じ主張なので、大塚の真似をして「リハビリテーション」という言葉を使う)。そしてそのためには、あえて流動性を低く抑えたローカル・コミュニティ規模でのリハビリテーションが有効ではないだろうか(というより、現在の国家規模では個人の認知能力を上回ってしまい、やりにくい)。

    • 再分配について

リバタリアンは再分配を極度に嫌う。そこには、フリーライダーへの怯えがあるのではないだろうか。
フリーライダーを野放しにせよ、とは思わないが、フリーライドを極度に恐れるのもいかがなものかと思う

  • 左翼(というよりも脱近代主義者)として
    • 拡大再生産を全肯定できるか

資源の有限性などを考えるに、サステイナブルな社会の構築は今後の人類にとって必須であろう。しかし、それは拡大再生産とは真っ向から対立するのではないだろうか。
拡大再生産を脱するためには、資本主義を脱する必要があるのではないか。
また、サステイナブルな社会の構築が拡大再生産とは対立するにしても、市場がサステイナブルな社会を選択する可能性もあるではないか、という反論もあるかもしれないが、現行の貨幣・資本を中心とした価値体系の中では困難と考える。さらに、拡大再生産を基軸とする価値観は、それ以外の価値観を許容しにくい。サステイナブルな社会を選択するするには、拡大再生産から一度「降りる」必要があるが、「降りにくい」もしくは「降りる」ことが不可能な場合がある。
サステイナブルな社会を選択するためには、オルタナティブな価値体系の確立が必要なのではないだろうか。

    • 積極的自由の意義再考

東浩紀的に、情報社会を二層構造として捉えるとき、インフラの層によるエンパワーメントによって(情報技術が)積極的自由に成り代わる可能性がある。その場合、積極的自由を必死に擁護する必要性がなくなる。そうすると、リハビリテーションの必要性もなくなってしまう。
民主主義にはある原理的な限界があると考える左翼的立場の自分としては、情報技術のエンパワーメントがうまく作用するのであれば、そちらを支持する。
しかし、大塚が言うように「そんな社会の到来はまだ先」であるならば、とりあえずリハビリテーションは必要となるだろう。
もう一点、積極的自由を擁護する必要がなくなると、再分配に関しても(少なくとも自分の上述の理屈では)成り立たなくなる。直感的に再分配は必要だと感じているので、再考する必要が出てくる。
「二層構造」「エンパワーメント」に関しては、『インターコミュニケーション』55号の「情報社会を理解するためのキーワード20」かはてなグループiesdのキーワードを参照のこと。こちらのキーワードも、整理や勉強や非常に役に立つので是非読んでほしい。

リバタリアニズム読本

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