『こころの情報学』西垣通

こういう学問を、一体なんて呼べばいいのか分からないのだけど、まあこういう学問の入門書としてはすごくよくまとまっている本。
新しい発見は少なかったけれど、今まで読んだり考えたりしてきたことを整理するのに役に立った。
これだけの内容を、特にジャンルの横断が激しいので、この短さにまとめることができたのが凄い。ただ、その分物足りない部分やまとめ方が乱暴ではないかと思う部分もあったわけだけど。

要約

情報を、パターンを形成するパターンと定義し、そこから散逸構造やハプロイド、ディプロイドのもつ自己言及性、再帰性に触れ、アフォーダンスオートポイエーシスによって意識と環境を一体にして持つ「こころ」というシステムを解明していく。
さらに、サルからヒトへと進化する過程で、言葉がどのように誕生したかを推理していく。それには社会の形成が大きく関わっている。まず群れがある一定の個体数を超えると、コミュニケーションとしてグルーミングよりも言葉が効率的になるため、文法を持たない原始的な言語が誕生する。
また、ヒトのこころが再帰的なシステムであるために、こころは未来のシミュレーションを行う。だが、それゆえに未来に対する不安が発生し、群れが不安定化する。そのため、社会の安定を図るためのフィクション=神話が導入されることとなった。そして、フィクションを語るために文法が誕生する。
フィクション=神話は、権力者の「声」によって支えられてきたが、文字の誕生と共に少しずつその地位を文字へと譲っていく。最終的には、印刷技術の誕生によって「声」の地位は失墜する。その失墜こそが近代の始まりなのである。
という、まさに文理融合的な壮大な話が展開されているのだが、最終章の情報化社会におけるヒトのこころに関しては、話が矮小化してしまった感がある。1999年という時代性が強くそれほど普遍性のある議論にはなっていないような気がする。おそらく本人は注意深く避けているつもりだろうが、単純な身体回帰論(斎藤孝的なものかあるいはゲーム脳的なもの)にも読めてしまうところが残念だ。だが一方で、イメージによってもたらされるアディクトの指摘は、東の二層構造論へのつながりもあるように感じられる。

いくつか

  • システム論的なこころへ

自己言及的システム的心的システム、とでもいえばいいのだろうか。
「こころ」に関するモデルとして、今一番注目されているのだと思うし、一番面白いモデルだと思う。
生命の自己言及性という点では、ホフマイヤーの『生命記号論』がさらに突っ込んだことを言っていると思う。パースの記号論の三項関係に着目し、記号(遺伝子)には解釈者がいると考えている。つまり、ディプロイドはハプロイドによって記述されているがハプロイドを解釈するのはディプロイドということ。(この本には『生命記号論』への言及がなかったが、今検索してみたら西垣は既に言及していた)
アフォーダンスオートポイエーシスによって、個体と環境との相互作用を説明した点(ここも自己言及的、というか再帰的というべき?)は下條の『<意識>とは何だろうか』に詳しい。『こころの情報学』では一章の半分くらいで説明されていることが、一冊かけて説明されているので、よりわかりやすいし、より詳しい。アフォーダンスと環境世界については、西垣と下條はほぼ同じ。西垣がオートポイエーシスと呼ぶものが、下條では「脳の来歴」という用語で語られている。
個人的には、オートポイエーシスよりも「来歴」という言葉の方が、この場合よいのではないかと思う。
というより、西垣のオートポイエーシスの使い方は、ちょっと雑ではないか、と感じている。
というのも、オートポイエーシスは、入力系も出力系もなく、個体というのはシステムの排出物に過ぎないというのが特徴だからだ。それゆえに実は自分には全く理解不可能な世界なのだけど、ここに他のシステム論との違いがあるのではないか、と思う。西垣の使っているオートポイエーシスにはあまりそういう雰囲気がなかった。オートポイエーシスの持つ閉鎖性が軽視されていた。西垣に言わせれば、マトゥラーナは閉鎖性を重視しすぎで本質はそこにない、ということだけど。

  • こころの3つの段階

ヤンツが考えた、動物から人間にいたるこころの進化の3つの段階が紹介されていた。
すなわち、「生体(organic)段階」「反照(reflective)段階」「自省(self-reflective)段階」
(reflectiveの他の訳語は、再帰
これは、デネットのいうダーウィン的生物、スキナー型生物、ポパー型生物、グレゴリー型生物(=人間)といった分類に半ばまで対応しているのではないか、と思った。ポパー型生物あたりから内部世界ができて、シミュレーションを行うことが出来るようになる(デネットは意識とはシミュレーションといっている)。そうすることで、こころのなかで試行錯誤をすることが出来るようになる。

  • 言語の誕生

といっても、まだ文法のない、単語だけの奴。
単語を理解するためには、「概念」の理解が必要で、本書では鳥も概念を理解できているようだ、という具体例の紹介で終わっていたが、そもそも「概念」を理解するというのがどういうことかというのもよく分かっていないはずだ。
演繹的にも帰納的にも、概念へとは辿り付けない。何らかの方法で、個々の要素の収束を図らなければならない。
要するに、クオリアというのは、個々の要素を概念へと収束させるものなのだ、と思う。

  • ヒトの歴史

この部分は非常に面白かった。
半年くらい前に、言葉や文字と人間の関係について色々と考えていたことを思い出した。
最近は、システム論や認知科学が面白くて、大学の選択を間違ったかとまで思ったりしたのだが(今いる大学はシステム科学の授業はやっていないが地元の大学にはあった)、いやもともと自分はフィクションについて色々と考えているんだったと思い出した(^^;
アフォーダンスの範疇を超えたものとしての言語。現実をあらかじめ圧縮させておくものとしての言語。
フィクションの誕生に関しては、あまり考えたことのない視点からの、つまり社会的な要請に基づくというのが面白かった。自分はもっと個体の側から発生したものと考えているので。社会的な要請も無論あって当然だと思うし、それはそれで面白いけど、それだけではないのではないか、とか。
印刷物が、「声」を失墜させ、文章を時間的なものから空間的なデータベースへと変えてしまった、というくだりは、時代的には近代の始まりなのだけど、あたかもポストモダンの始まりのようにも見えてしまう。

  • サイバーなこころ

この本に限らず最近思うこと、理系の人ってポストモダニズム界隈の哲学が嫌いなんだろうなあ。
自分はどちらかといえばその界隈に近いし、その界隈だってまだ実りはあるはずだ、と信じているからこそ接近しているのだけど、80年代に一体何があったんだ……(^^;;
書かれた時期が1999年のせいなのかどうかは分からないけど、ヴァーチャル・リアリティやカルト宗教に関する考え、予測は現状と違うかな、という感じ。でも、文字が声を超えたように、イメージが文字を超えゆく、という考えは的を得ている気がするし共感するんだけど、何で時代遅れのように聞こえるのか。東がヴァーチャル・リアリティをスーパー・リアリティと記号的リアリティに分類してしまったからだろうか。
マクルーハンに手を出すつもりはないけれど、結構名前を見かける人だよなあ。
ロシア・フォルマリズムとかまで手を出しているのが、この本の凄いところ。本当に脱領域的というか、読書の幅が広いと感じる。
で、「詩的言語」に関しては、ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』の中に出てきた「詩人」について思い出した。ニーチェの価値創造にも近いかな。既存のものを少し転ずることによる、創造的な生き方。

  • 身体

身体、という言葉は、かなり定義が曖昧な言葉で、その上最近はやっているものだから、どう使っていいものだか戸惑うのだが。
僕の場合、心身二元論を超えるものとして、肉体―道具―環境世界をも一体にした心的システムとして身体という言葉を考える時には肯定的に捉えている。
一方で、最近はメディアやネット漬けの生活(視覚・聴覚・意識)ばかりで、もっと五感とか肉体とか使う方がいいんじゃないというニュアンスで身体が使われている時は、否定的に捉えている。
要するに、「もっと体を動かせ」というのは余計なお世話だ、と思ってしまうわけだ。
オートポイエーシスという閉鎖的なシステム論の中では、「もっと体を動かせ」(=「仮想世界から現実世界へ戻れ」)といった言い方は単に無意味でしかない。それに、仮想世界と現実世界を区分するのは非常に難しい。来歴と環境世界の相互作用を考えることで、かろうじて現実世界を維持することは可能だ。しかし、言語やフィクションの問題を持ち出してくるとどうなるか。
この本の最後の章は、イメージによる洗脳、アディクトに対して、言葉や身体を対置して(特に言葉だが)対応・対抗していこう、というものである。
東の二層構造論は、前者と後者を交差させることは不可能だと説く。
鈴木のカーニヴァル論は、アディクトは長続きしないと説く。
こうした立場からは、対抗の必要性そのものが無効化されてしまうだろう。

  • 志向性

この問題については、ほとんど触れられず。
志向性、言い換えるなら人間のモチベーション、インセンティブ、評価や行為の実行など。
最近忘れかけているけど、自分の考察の原点のようなところ。
あえていうなら、ミンスキーの『心の社会』について触れられていた項が多少その問題について触れていた。
つまり、感情というのは、論理よりも、実行において重要なキーとなる、ということ。

  • 言語の規範化

近代国家は言語の規範化を行う
というくだりは、最近授業でやったばかりのことなので納得がいった。
ところで、規範化に対して、暗号化があるんじゃないだろうか。
他人とコミュニケートし、相互理解するための言語(あるいは社会を安定させるフィクションを維持するための言語)は、まず何よりお互いに通じなければ存在意義がない(だから規範化される)、にも関わらず、現実には暗号化がおきているのではないか、ということは以前書いたことがある(「暗号性と言語・文字」
また、そうした暗号化を行う者こそが、「詩人」なのであろう。
あるいは、この本の中でも触れられていた山口昌男の「中心と周縁」における、「周縁」の役割なのであろう。

こころの情報学 (ちくま新書)

こころの情報学 (ちくま新書)