『<意識>とは何だろうか』下條信輔

「来歴」と「環境世界」という二つの軸から、脳と心・意識の関係を探る。また、このアプローチによって、経験説と生得説、あるいは機能主義と行動主義の和解・融合をも目指す。

脳科学などにおいて、心をやるのに神経の機能だけみてても仕方がない、という立場になった時、あるいは意味論的な問題が浮上してきた時、身体や環境へと向かうか、クオリアへと向かうか、という二つのアプローチが現在なされているのではないだろうか。

心とは、脳と身体と環境が相互依存的に生み出しているものである。脳は環境の反映(「来歴」)であり、環境は脳の反映(「環境世界」)である。そして、意識はその中でサーチライト的な役割を担う。

意識や心を「密室」から解き放ってくれる本
読んでいてとても面白かった。
意識や知性、脳や心といった分野にはとても興味があり、いくつか読んでいるが、今まで読んできた中で一番同意できた。
環境や身体から意識を捉え、「密室」から解き放ってくれる、というのは、デネットの本でも感じたが、デネットの考えには個々のコンポーネントを組み上げていく、というシステム学的な雰囲気を感じるのに対し、こちらはさらにそうしたコンポーネントからも解き放たれるような感じがする。
しかし、志向性、自発性といったものに関しては、またあともう少しというところで手が届かなかったような気もする
それは、クオリアの方の問題なのだろうか。
あと、他者の話とか環境世界の話とかは、自分が拡散していくような感じもする。それがつまり、「密室」からの解放なのだけれど。その拡散した自分をぎゅっと縮めてくれるのは……やっぱユーザーイリュージョンなんだろうなぁ。
色々面白くて、色々考えていたはずなのだが、どうにも拡散してしまって(^^;)上手くまとまりません
・心とは一体どのように構成されているのか→身体や環境の関わりによって
・心というシステムは何故一つのものとして捉えられるのか→クオリアあるいはイリュージョンとしての意識によって
・志向性、自発性、創造性、モチベーションは如何にして可能か→そういう機能をもったコンポーネントのネットワーク(あるいはその複雑化)によって。心の理論と他者との関係によって。
・人間以外との知性とのコミュニケーションは可能か→そもそも、人間以外の知性は知性として定義可能か
著者の他の本も読みたいし、サール、ブレンターノ、ラマチャンドラン、ユクスキュルの本も読みたい。まだ『唯脳論』『脳とクオリア』『脳と仮想』も読んでないし。


<追記>(2006/01/19 13:57)
『意識とは何だろうか』の最後の章は、プロザックについて割かれている
最後に問題になってくるのは「境界」だ。
人工と自然、人為的に介入していい部分と介入してはいけない部分の「境界」を設定することは可能なのであろうか、という倫理的な問いにより、この本は終わる
同様の問いは、イーガンSFやハガレンにも見出すことができると思う
上で、「如何に心というシステムを一つのものとして捉えるか」と書いたが、アイデンティティとか統一性とかあるいはイーガンSFであれば不変量と呼ばれるもの、を如何に画定していくか、という問題とつながってくると思う。
しかし、自分を自分たらしめているものが、環境や他者に見出されるのだとすれば、その作業は困難を極める
この本はまさに「他者に見出」すのだが、それはあたかもラカンのようである
そして、ラカン的に思考をすれば、否定神学的な対象aが出現せざるを得ない(あるいはクオリアは新たな対象aに過ぎないのか)。
一方で、この本やイーガンSFは、対象aへは向かわない。「他者に見出」してそこで終わる。それ以上の遡行は、人間の認知では不可能だ。
ここに、東のいう解離的近代との類似点、少なくともその「動物的側面」との類似点を見るが、どうか。

「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 (講談社現代新書)

「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 (講談社現代新書)